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第058話 両親のいた夜

 

 雨宿りをする馬車の中で、リリアは古いリュートを取り出した。


 クロが嗅いだ異変を追うには、夜が深すぎた。


 姉妹は村人へ戸締まりを頼み、三匹を交代で見張りに立てる。眠れないまま、雨音を聞いていた。


 そんな夜だけ、リリアは遺品箱を開ける。


 父アルノの遺品。


 公演には使わない。


 弦が切れれば、父の音まで失う気がするからだ。


 胴には十二年前の焦げ跡が残っている。


 磨けば消せるかもしれない。それでも二人は残した。


 父が最後まで舞台にいた証だった。


 エミが柔らかな布で胴を拭く。短杖「囁きの枝」も父が残したものだった。


 短杖は一座の舞台袖に生えていた古木の枝から、アルノが削った。


「エミは大きな声が苦手だから、言葉が小さくても届く杖にしよう」


 父はそう言って、魔獣の心へ触れる術を刻んだ。


「覚えてる?」


 リリアが一番低い弦を鳴らす。


 十二年前。


 八歳のリリアは、舞台裏で父の足へしがみついていた。


「失敗したらどうしよう」


 アルノはリュートを抱え、笑った。


「失敗したら、もっと大きく笑って逃げろ。笑うことは、怖くないふりじゃない。怖くても次の一歩を出す合図だ」


 言った直後、アルノ自身が舞台の階段で足を滑らせた。


 リュートだけは頭上へ掲げて守り、背中から落ちる。


 セレナが歌いながら笑い、観客も一緒に笑った。


 失敗が、その夜一番の拍手になった。


 母セレナが歌い始める。


 セレナの声はリリアほど華やかではない。


 焚き火のように低く、近くにいる人だけを温める歌だった。


 公演後は娘たちの髪を梳き、花油を一滴だけつける。白髪の女から漂った香りと同じものだと、まだ二人は口にしなかった。


 幼いエミは客席より、舞台下へ来た小さな魔獣へ自分の菓子を分けていた。


「全部あげたら、エミの分がなくなるぞ」


 父に言われ、四歳のエミは菓子を半分戻す。


 今のチビと同じような仕草だった。


 家族四人の夜は、音楽と笑いで満ちていた。


 それでも、いつも明るかったわけではない。


 旅の道具が壊れ、客が三人しか来なかった夜もある。雨で幕が濡れ、リリアが熱を出した夜もある。セレナはそんな時ほど、娘たちへ無理に笑えとは言わなかった。


「怖い日は、怖いって言ってから歌えばいいの」


 母はそう言って、リリアの額へ花油をつけた。


「怖くないふりをする歌は、すぐ折れる。でも怖いまま立つ歌は、誰かの怖さも連れていける」


 アルノは隣で大げさに頷き、空の皿を太鼓代わりに叩いた。


「つまり父さんが転んだ時の歌だな」


「あなたは転びすぎ」


 母が呆れ、リリアが笑い、エミは菓子を握ったまま眠りかける。


 幸福は完璧な夜ではなかった。


 壊れた道具を囲み、失敗を明日の演目へ変える時間だった。


 リリアはその部分を、ずっと妹へ話してこなかった。


 父と母を綺麗なまま残したくて、苦い日や弱い声を削っていた。けれど削られた記憶の中では、リリアだけが弱音を吐けない子どもになってしまう。


「お母さんも、怖いって言ったことがあった」


 思い出して、リリアは小さく呟く。


 エミが顔を上げた。


「いつ?」


「大きな町の公演前。客席が多すぎて、手が冷たいって」


 セレナはその手をアルノに温めてもらい、それから舞台へ出た。


 リリアは初めて、母を強い人ではなく、怖くても舞台へ出た人として思い出した。


 その夜の記憶は、燃える幕の色へ変わる。


 幸福な場面ほど、次の記憶へ進むのが怖い。


 リリアは弦から指を離そうとした。


 エミが手を重ねる。


 二人でなければ、最後まで思い出せない。


 魔王軍の実験部隊が一座を囲んだ。


 狙われたのは金ではない。


 歌声、炎魔法、魔獣との結びつき。魂へ作用する力を持つ者たちが、不死術式の材料として選ばれた。


 襲撃の直前、セレナは一度だけ舞台袖の燭台を消した。


 風がないのに火が横へ流れたからだ。


「今夜の客席、音が浅い」


 母はそう言った。


 リリアには意味が分からなかった。拍手も笑いも、いつもどおりに聞こえた。けれどセレナは、人が本当に聞いている時の息と、命令で座らされている時の息を聞き分けていた。


「アルノ、子どもたちを馬車へ」


 その一言がなければ、姉妹はもっと舞台に近い場所で術式に呑まれていた。


 母は最初から逃げ遅れたのではない。


 逃がすために、最初の一歩をそちらへ使った。


 黒い術式が地面を走り、団員たちが倒れる。


 アルノは舞台幕の綱を切った。


 団員を逃がすため、楽器箱を積んだ馬車へ火をつける。


 長年集めた衣装も道具も、追っ手を止める壁へ変えた。


 燃える幕が落ち、追っ手との間を遮る。


「リリア、エミを連れて走れ!」


「お父さんも!」


「すぐ追いつく」


 父は笑った。


「また会おう」


 セレナが二人の背を押した。


「森を抜けたら、振り返らないで」


 母の手は血で濡れていた。


 幼い姉妹は、それが誰の血か分からなかった。


 その先の記憶は、雨と煙で途切れている。


 母が倒れる姿を、姉妹は見ていない。


 父が追いつくこともなかった。


 エミは当時四歳で、記憶がところどころ欠けている。


 だからリリアは何度も同じ話をした。


 父は笑っていた。母は優しかった。二人は姉妹を愛していた。


 妹のために語るうち、リリア自身もその記憶から外へ出られなくなった。


 現在の馬車へ、雨音が戻る。


 エミがリュートの胴へ触れる。


「また会おうって、言った」


「うん」


「嘘だったのかな」


 リリアはすぐ否定しようとした。


 けれど言葉を飲み込む。


 追いつけなかった約束と、最初から守る気のない嘘は違う。


「会おうとしてくれたと思う」


 それが今の二人に言える、最も正直な答えだった。


 二人とも知っている。


 その約束は、十二年間果たされていない。


 リリアはリュートを箱へ戻そうとして、やめた。


 弦を一本だけ、弱く弾く。


 記憶の中の父なら、音程がずれていると笑っただろう。母なら、そのずれへ歌を合わせた。


「私たち、顔を忘れてないよね」


 エミが尋ねる。


「忘れないわ」


 即答した後、リリアは目を伏せる。


 父の笑い皺は思い出せる。母の手の温度も覚えている。けれど声の細部や、歩く時の癖は少しずつ曖昧になっていた。


 忘れないと誓うだけでは、時間を止められない。


「忘れたところは、二人で話す」


 エミが言う。


「私が覚えてるところを、お姉ちゃんに渡す。お姉ちゃんの記憶も、私に教えて」


 一人の記憶が欠けても、家族の物語まで消えない。


 リリアはリュートの焦げ跡を撫で、今夜思い出した父の失敗を新しい歌詞帳へ書いた。


 過去を箱へ閉じるのではなく、次の歌へ渡す最初の一行だった。


 馬車の外で、クロがもう一度低く唸った。


 眠った匂いが、雨の中でも近づいていた。


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