第057話 チビとクロとハナ
「チビ、木の実は一人三個。クロ、見回りは朝ごはんの後。ハナ、その壺は蜂蜜じゃない」
人前では言葉の少ないエミが、朝から途切れなく話していた。
リリアは馬車の陰から、その声を聞いている。
人間と話す時のエミは、言葉を選ぶ間に沈黙が生まれる。三匹を相手にする時だけ、考えたことがそのまま口から出た。
姉にさえ見せない表情を、魔獣たちは知っている。
チビはリス型の小さな魔獣で、素早いが食い意地が張っている。
三年前、罠にかかっていたところをエミが助けた。傷が治っても森へ戻らず、勝手に馬車へ乗り込んだ。
クロは黒い狼型。寡黙で、群れの周囲を必ず一周してから休む。
人間の狩人に群れを追われ、誰にも近づかなかった。エミは触ろうとせず、毎晩同じ距離へ食事を置いた。クロが自分から隣へ座るまで三か月かかった。
ハナは白い熊型で、一番大きく、一番臆病だった。
見世物小屋で無理に芸をさせられていたため、大きな拍手が苦手だった。今の舞台では、ハナが耳を伏せればエミがすぐ演目を止める。
ハナが壺の匂いを嗅ぎ、顔をしかめる。
中身は舞台用の青い塗料だ。
チビが笑うように鳴き、直後に木の実を五個頬へ詰めた。
「チビ。二個返して」
チビは一個だけ返す。
「もう一個」
エミが手を出すと、渋々戻した。
最後の一個は、エミの掌へ置かず、眠っているクロの鼻先へ置く。
完全に独り占めする気ではなかったらしい。
彼女は魔獣へ命令しない。
公演の火の輪も、綱渡りも、嫌ならしなくていいと先に伝える。三匹はエミが頼むから舞台へ出る。
テイムの契約印は、首輪ではなくエミの短杖と三匹の胸へ同じ小さな光として現れる。
命令を強めれば、もっと難しい芸もできる。
エミはしない。
従わせた成功より、自分で選んで戻ってくる一歩を大切にしていた。
昼、村の子どもが近づこうとし、母親に止められた。
「魔獣は危ないよ」
母親の声を聞き、クロの耳が後ろへ倒れる。
過去に同じ言葉のあと、石を投げられたことがある。
ハナが身を縮める。
エミは三匹の前へ立った。
「怖いなら、近づかなくていいです。でも、この子たちは勝手に傷つけません」
「絶対に?」
「痛いことをされたら、自分を守ります。人間と同じです」
安全だと都合よく約束せず、境界線を伝える。
母親は戸惑いながら、子どもの手を離さなかった。
その境界線は、一度破られかけた。
別の少年が、面白半分に小石を拾った。投げるつもりはなく、ただ反応を見たかったのかもしれない。けれどクロの目には、昔の狩人と同じ腕の形に見えた。
低い唸りが漏れる。
少年の顔から血の気が引いた。
エミはクロの首へ飛びつかなかった。
無理に押さえつければ、クロはまた人間に支配された記憶へ戻る。だからエミは少年との間へ立ち、短杖を地面へ置いた。
「石を下ろして」
声は震えていた。
それでも逃げなかった。
「クロも、一歩だけ下がって」
クロはすぐには動かない。エミの目を見て、少年の手を見て、もう一度エミを見る。
やがて前足を一歩だけ下げた。
少年も石を落とした。
勝った負けたではない。どちらも、傷つける手前で止まった。
エミはそこで初めて息を吐いた。
「触りたいなら、まず名前を呼んで。驚かせないで」
少年は小さく頷いた。
村の大人たちも、その一連を見ていた。
魔獣が危険なのではない。危険にする接し方がある。そのことを、説教より先に場面が教えた。
その時、チビが走った。
子どもが落とした布の人形を拾い、足元へ置く。
クロは距離を取り、ハナは顔を隠したまま手だけを振った。
子どもは人形を抱き、チビへ木の実を一つ渡した。
チビはすぐ食べず、エミを見た。
「もらっていいよ」
許可を得てから頬へ詰める。
子どもがもう一度笑う。
夕方には、三匹の周りに小さな輪ができていた。
誰も急に触らない。
エミが教えたとおり、手の匂いを嗅がせ、近づいてくるのを待つ。
ハナは最初、荷車の下に隠れていた。やがて一人の少女へ鼻先を寄せ、花の髪飾りをつけてもらう。
リリアが笑う。
「人気者ね」
エミはハナの背を撫でる。
「みんな、私の家族だから」
「私も?」
リリアが冗談めかして聞く。
エミは少し考える。
「お姉ちゃんは、最初から」
リリアの笑顔が、今度は自然にほどけた。
夜。
クロが急に起き上がり、風上へ鼻を向けた。
喉の奥で低く唸る。
エミの胸へ、匂いの意味が伝わる。
クロが嗅いだのは一人分ではない。
村の外、街道の先。何十もの呼吸が同じ深さへ揃い、起きている者の匂いがしない。
風に混じって、古い花油の香りも一瞬だけ届く。
「どこ?」
クロは街道ではなく、村の共同墓地の方角へ鼻を向けた。
チビが肩から屋根へ上がり、暗闇を見渡す。ハナは子どもたちが帰った家の前へ移動し、眠った村を守る位置についた。
三匹は同じ危険へ、別々の方法で備える。
エミも短杖を取り、村の戸を一軒ずつ確認した。
人と話すのは苦手でも、危険を知らせるためなら扉を叩ける。
「今夜は外へ出ないでください。変な歌が聞こえても、窓を開けないで」
村人は昼間、三匹が人形を届けた姿を見ていた。
魔獣使いの少女の警告を、今度は疑わず受け取る。
ただ、全員がすぐ従ったわけではない。
酒を飲んでいた男が戸口で笑った。
「子どもの芸の延長だろう。魔獣が唸ったくらいで」
エミは言い返す言葉を探して詰まった。
その時、ハナが男の家の裏へ回り、薪小屋の扉を前足で押さえた。中から眠ったように倒れていた鶏が一羽転がり出る。傷はないのに、呼吸だけが深い。
男の笑いが消えた。
エミは鶏を抱き上げ、男へ渡す。
「人より先に、小さい生き物が眠ってます。だから閉めて」
今度は男が自分で戸板を引いた。
エミ一人の言葉では足りない場所を、三匹が行動で埋めた。
エミは最後にリリアの眠る馬車へ戻った。
姉の寝顔は穏やかだが、指だけが舞台幕を握っている。
起こすべきか迷う。
自分で見張れると思いたい気持ちと、姉へ隠してはいけないという気持ちがぶつかった。
「お姉ちゃん」
結局、肩へ触れる。
守ることは、一人で抱えることではないと、姉に言う前に自分が覚える必要があった。
土でも血でもない。
息をしているのに、生きていないような匂い。
「今夜は、眠った匂いがする」
その言葉に、リリアは舞台用の笑顔を作らなかった。
すぐに幕紐を解き、火の道具を箱へ戻す。
今夜必要なのは公演ではない。
村が朝まで目を覚ましていられる段取りだった。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




