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第053話 お前、頭いいな

 ボルドが突然、逃げ出した。


 村人も魔王軍も、グリードさえ一瞬動きを止めた。


「逃げるのか!」


「そう見えるなら追ってこい!」


 本当は走るだけでも脇腹が痛む。


 だが速すぎれば罠を疑われ、遅すぎれば斧が届く。ミアが指定した歩幅で、指定した角を曲がる。


 普段のボルドなら最も苦手な戦い方だった。


 ボルドは肩を押さえ、わざと足をもつれさせながら鍛冶場跡へ向かう。


 グリードが大斧を担いで追う。


 弱った獲物を逃がす理由はない。


 鍛冶場跡には、商会の荷物が散乱していた。


 運搬用の鎖。滑車。樽から流れた油。重量を量る大型の計量器。そして村の鉱山から運び出した魔力鉱。


 全てミアが配置した。


 運搬用の鎖は、詐欺商人の倉庫から正規手続きで取り戻した品。


 滑車と計量器は、ボルドが市場で何度も乱暴に扱いながら壊さなかった商会道具。


 油樽は西橋を避けたことで川へ落とさずに済んだ荷物だった。


 これまで守った商品と取引が、今度は村を守る罠になる。


「右へ三歩!」


 屋根の上から声が飛ぶ。


 ボルドは考えず従う。


 右へ動けば、グリードの斧は避難路から外れる。


 ミアの指示には、敵を倒す以外の理由も全て含まれている。ボルドはそれを一つずつ説明されなくても、声の方向へ身体を預けた。


 グリードの大斧が空を切り、床へ突き刺さった。


「鎖を!」


 ボルドが天秤棒で鎖を跳ね上げる。


 輪がグリードの腕へ絡む。


 グリードは力で引き千切った。


 だが切れた鎖が滑車を回し、頭上の箱を開く。


 大量の魔力鉱が降り注いだ。


 鉱石は本来、鍛冶炉の温度を上げるため少量ずつ使うものだ。一度に吸収すれば、普通の術者なら魔力脈が焼ける。


 グリードの暴食がどこまで耐えるかは分からない。


 ミアの作戦にも、失敗の可能性はある。


「餌をくれるか」


 グリードの刻印が鉱石の魔力を吸い上げる。


 一つ、二つ、十、二十。


 鎧が赤く膨れ、全身から熱が上がった。


「今です! 全力で殴ってください!」


「吸わせるのか?」


「いいから!」


「分かった!」


 ボルドは疑問を捨てた。


 ミアは彼を犠牲にする計算をしない。


 その一点だけは、どんな数字より確かだった。


 ボルドは天秤棒を振り抜いた。


 衝撃も鎧へ吸い込まれる。


 グリードは笑った。


 その直後、笑顔が固まる。


 吸収しすぎた刻印が、力を流す先を失っている。魔力鉱とボルドの打撃が内部でぶつかり、重鎧の継ぎ目を内側から押し広げた。


 グリードは強さを選ばず喰らった。


 必要な量も、使う順序も考えず、奪えるだけ奪った。


 腹を満たすことと、力を扱えることは同じではない。


 ミアが記録した三呼吸。


 吸収直後、グリードは力を変換するまで動けない。


「今度は左へ!」


 ボルドは鎧を殴らず、絡んだ鎖の端を掴んだ。


 拳を当てれば、また吸われる。


 だから敵ではなく、敵へ繋がる道具を動かす。


 初めて、力をぶつける以外の使い方を戦いの最中に選んだ。


 力の向きを変える。


 巨体を滑車ごと引き、油の流れた床へ倒す。


 グリードの足が滑った。


 大型計量器の台座が跳ね上がり、身体を鍛冶場の中央へ投げる。


 ミアが算盤を投げた。


 木枠が壁の留め金を外す。


 以前ボルドの暴走を止めた一投と、同じ軌道だった。


 算盤は敵を倒す武器ではない。必要な一か所へ、正確に届く道具だ。


 退路へ鉄板が落ちた。


「逃げ道、封鎖しました」


 ミア自身の退路は残してある。


 ボルドが失敗した場合は、北壁の縄を切り、鉱石ごと鍛冶場を崩してグリードを足止めする。その時はボルドも巻き込まれる。


 使いたくない最後の手段だった。


「帰ってきてください」


 命令の合間に、小さな声が漏れる。


「損失計上なんて、絶対にしませんから」


 ボルドは振り返らず、親指だけを立てた。


「算盤はそう使う物じゃねえだろ!」


「あなたにだけは言われたくありません」


 三呼吸が終わる。


「ボルドさん、下へ!」


 ボルドは天秤棒をグリードの鎧の隙間へ差し込み、全身で押し下げた。


 吸収した力を返す前に、巨体ごと地面へ叩き込む。


 石床が陥没した。


 グリードの外殻へ、一本の亀裂が走る。


 亀裂は胸から肩、両腕へ広がった。


 重鎧が砕け落ちる。


 ミアは最後の縄から手を離した。


 最悪の計算を使わずに済んだ。


 勝率は六割だった。


 残り四割を埋めたのは、指示どおり動いたボルドと、彼なら戻ると信じて最後まで合図を出したミアだった。


 数字と感情は、初めて同じ答えを指している。


 ボルドは息を切らしながら、屋根の上のミアを見た。


「お前、頭いいな」


 ミアはほんの少しだけ笑った。


「あなたが頭を使わないからです」


 今度の声には、誇らしさが混じっていた。


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