第005話 旅立ちの朝
序章最終話です
目を覚ました時、アレンは荷馬車の上にいた。
空が揺れている。
いや、揺れているのは自分の体だった。荷台の板が車輪の振動を拾い、背中にごつごつと当たっている。干し草の匂いと、革袋の匂い。遠くで馬の鼻息がした。
アレンは起き上がろうとして、失敗した。
左手首が燃えるように痛んだ。
「起きるな。死にたいのか」
低い声がした。
荷台の端に、髭の濃い旅人が座っていた。年は四十くらい。片目の下に古い傷がある。手には水袋を持っている。
「ここは」
「街道だ。霧港ヴァルへ向かってる」
「女の子は」
旅人は少しだけ黙った。
「生きてる。別の荷馬車で寝てる」
「母親は」
旅人は一度、目を伏せた。
「助からなかった」
「そうか」
声がかすれた。
また、守れなかった。
けれど、全部ではなかった。
女の子は生きている。
その事実だけが、胸の奥に小さく残った。
旅人は水袋を差し出した。
「飲め」
アレンは右手で受け取ろうとした。だが、指に力が入らない。水袋が傾き、少しこぼれる。
旅人はため息をつき、アレンの口元へ水袋を寄せた。
「無理するな」
「できる」
「できてない」
その言い方があまりにもまっすぐで、アレンは言い返せなかった。
水はぬるかった。
それでも喉を通ると、体が少しだけ戻ってくる。
「あの斥候を吹き飛ばしたのは、お前か」
旅人が聞いた。
アレンは左手首を見た。
布が巻かれている。焦げた袖は切り取られていた。布の下で、火傷がまだ脈を打っている。
腰の袋には、錆びた短剣がある。
あるだけで分かる。
見なくても、そこにあることが分かる。
「分からない」
アレンは答えた。
「俺がやったのかも、分からない」
「じゃあ、誰がやった」
「分からない」
旅人はアレンをじっと見た。
笑わなかった。
疑いもしなかった。
ただ、少し面倒なものを見る顔をした。
「分からない力で魔王軍を吹き飛ばす奴を、俺は荷台に乗せてるわけか」
「降りた方がいいなら」
「馬鹿を言うな。怪我人を放り出す趣味はない」
その言葉に、アレンは目を伏せた。
怪我人。
自分はそう見えるのだ。
勇者ではなく。
魔王軍を倒した者でもなく。
ただの、怪我人。
少しだけ安心した。
「霧港ヴァルには、腕のいい治療師がいる」
旅人は言った。
「道や魔王軍に詳しい連中もいる。表で看板を出してる奴ばかりじゃないがな」
「義賊ローグも?」
旅人の眉が上がった。
「聞こえてたのか」
「少し」
「あいつはまともじゃない方だ」
「悪い人なのか」
「金持ちの倉から盗んで、腹を空かせた連中に配る男だ」
アレンは考えた。
よく分からなかった。
「悪い人なのか」
「だから、まともじゃないと言った」
旅人は苦笑した。
荷馬車が石を踏み、アレンの体が跳ねた。痛みで息が詰まる。左手首を押さえると、短剣が袋の中でかすかに鳴った。
旅人の目がそこへ向いた。
「その袋、何が入ってる」
「短剣」
「武器か」
「たぶん」
「たぶんで持つな」
「俺も、そう思う」
アレンは袋の上から短剣を押さえた。
親父さんの声が蘇る。
お前が勇者だ。
いつか目を覚ます。
生きろ。
「俺は」
言いかけて、止まった。
勇者だとは言えなかった。
言えば、また何かを守れなかった自分が、その言葉に押し潰される気がした。
旅人は急かさなかった。
荷馬車の音だけが続く。
道の両側に、低い草原が広がっていた。ソルヴェイ村の丘はもう見えない。煙も見えない。けれど、左手首の痛みだけが、村が本当にあったことを証明している。
荷馬車の車輪が、一定の間隔で土を踏む。
アレンは二度、口を開きかけた。
言葉にすれば、自分の弱さが決まってしまう気がした。
それでも、三度目には声が出た。
「一人じゃ、無理だった」
声は小さかった。
それでも、自分の耳にははっきり聞こえた。
「村でも。街道でも。俺は、一人じゃ何もできなかった」
旅人は水袋の口を閉めた。
「そうだな」
否定されなかった。
慰められもしなかった。
ただ、その通りだと言われた。
胸が痛んだ。
けれど、少しだけ息がしやすくなった。
「仲間が必要だ」
言葉にした瞬間、短剣が袋の中で静かになった。
まるで、その答えを待っていたみたいに。
アレンは霧港ヴァルの方角を見た。
まだ街は見えない。
道の先に、薄い霧だけが浮かんでいる。
その向こうに、義賊ローグという男がいる。
悪い人間から金を盗み、もっと悪くなりそうな連中に飯を配る男。
まともではない男。
今のアレンには、まともな人間より、その方が少しだけ会いやすい気がした。
「霧港ヴァルへ行く」
「この荷馬車がそこへ向かってる」
「自分の足でも行く」
「歩けるようになってから言え」
旅人はそう言って、荷台の端に背を預けた。
アレンは目を閉じた。
眠るのが怖かった。
目を閉じれば、村が燃える。
親父さんが倒れる。
鐘が鳴る。
それでも、今度は目を閉じた。
一人ではない荷馬車の上で。
誰かが手綱を握り、誰かが馬をなだめ、誰かが怪我人のために水を残している。
それだけで、夜の底とは違った。
朝が来るかもしれないと思えた。
アレンは錆びた短剣を押さえたまま、眠りに落ちた。
そして物語は、彼から少しだけ離れる。
霧港ヴァル。
アレンが名を聞いた男は、その三日前、かつての仲間たちから「替えが利く」と言い渡されていた。
男の名は、ローグ。
ここまでが、勇者アレンの旅立ちです。
次話から始まる第1章の主人公は、濡れ衣で仲間を追放された斥候ローグ。物語はいったん勇者を離れ、別の道を歩き始めます。
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