第004話 共鳴、暴走
村を出て三日目に、アレンは自分が何も知らないことを知った。
道の歩き方を知らない。
夜の寒さを知らない。
食べ物が尽きる速さを知らない。
そして、人が一人で歩くには、世界が広すぎることを知らなかった。
一日目は、まだ意地があった。
自分が歩けることを証明するように、足を止めずに歩き続けた。二日目には、その意地がどこへ向かっているのか分からなくなった。怒りか。悲しみか。それとも、立ち止まったら全部崩れるという恐怖か。三日目の朝には、それすらも正確には分からなかった。
ただ、足だけが動いている。
それが今のアレンのすべてだった。
錆びた短剣は、腰の袋に入れてある。
抜いてみても、ただの錆びた刃だった。振れば手首が痛み、握れば柄のひびが手のひらに食い込む。これが親父さんの言った「目を覚ます短剣」だとは、どうしても思えなかった。
左手首の火傷は、熱を持ったままだった。
水で冷やしても、布で巻いても、眠っている間でさえ疼く。痛みは歩くたびに脈を打ち、親父さんの最後の声を思い出させた。
お前が勇者だ。
「違う」
アレンは何度もそう言った。
誰も聞いていない道で。
誰も答えない夜に。
言わなければ、その言葉が本当になってしまいそうだった。
昼過ぎ、街道の脇で荷馬車が倒れているのを見つけた。
車輪が外れ、荷箱が割れている。布袋が散らばり、麦の粒が土の上にこぼれていた。馬はいない。かわりに、焦げた匂いがした。
アレンは足を止めた。
逃げた方がいい。
そう思った。
けれど、荷箱の影から小さな声が聞こえた。
「だれか」
子どもの声だった。
アレンは走った。
荷箱の裏に、女の子がうずくまっていた。年はリオより少し下に見える。膝を抱え、口元を両手で押さえている。泣くことすら怖がっている顔だった。
「大丈夫か」
女の子は首を振った。
「お母さんが」
そこまで言って、声が止まった。
荷馬車の下から、女の手が見えていた。指は土を掴んだまま、動いていない。
アレンは、その手を一瞬見た。
それだけで分かった。
今できることを、まず全部やる。答えは後でいい。
アレンは周囲を見た。
道の先に、黒い影が三つあった。
ソルヴェイ村を襲った獣より小さい。だが、同じ黒い鉄の輪を首につけている。背中には骨のような棘。目はなく、裂けた口だけがある。
魔王軍の斥候。
言葉にしたわけではない。
それでも、アレンには分かった。
あの日と同じ匂いがした。
「立てるか」
女の子は震えながら頷いた。
「西へ走れ」
「お母さんは」
「後で探す。今は走る」
自分の声が、親父さんの声に似ていた。
そう気づいた瞬間、胸の奥が痛んだ。
女の子が立ち上がる。だが、一匹の斥候がこちらを向いた。裂けた口が開く。声にならない音が漏れる。
アレンは短剣を抜いた。
錆びた刃が、昼の光を鈍く返す。
弱そうだった。
あまりにも。
斥候が駆けた。
アレンは短剣を構えた。
最初の一撃は、受けることすらできなかった。
黒い腕が横から来た。アレンは肩を打たれ、荷馬車の残骸へ叩きつけられた。息が抜ける。脇腹の奥で嫌な音がして、左腕の感覚が薄くなった。
短剣を落としそうになり、動く右手で必死に握る。
二匹目が回り込む。
女の子が悲鳴を上げた。
アレンは立った。
立てた理由は分からない。
ただ、女の子がそこにいて、斥候がそちらへ向かっていた。
「行くな」
声はかすれた。
斥候は止まらない。
「行くな!」
アレンは斥候へ飛びついた。
短剣を振る。
刃は黒い皮膚を浅く削っただけだった。斥候は痛みを感じた様子もなく、アレンを振り払う。
地面に転がる。
口の中に血の味が広がった。
弱い。
自分は弱い。
勇者なんかじゃない。
親父さんも守れなかった。
村も守れなかった。
目の前の子どもすら、守れない。
その時、女の子が泣いた。
声を殺しきれず、小さく、喉の奥で。
その泣き声が、アレンの左手首に触れた。
そんな気がした。
火傷が熱を持つ。
短剣の柄が震える。
胸の奥で、何かが割れた。
アレンは立ち上がった。
視界が白くなる。
音が遠ざかる。
女の子の恐怖。
荷馬車の下で動かない母親を見つめる、女の子の痛み。
親父さんの最後の声。
リオの泣き顔。
マルタ婆さんの手。
それらが全部、アレンの中へ流れ込んできた。
多すぎる。
痛い。
やめろ。
そう思ったのに、止まらなかった。
短剣が光った。
錆の隙間から、細い白い光が漏れる。
アレンは斥候へ向かって踏み出した。
次の瞬間、光が爆ぜた。
斥候三匹が吹き飛んだ。
荷馬車の残骸も、散らばった麦袋も、道端の石も、一緒に弾け飛ぶ。アレン自身の体も後ろへ投げ出され、背中から地面に叩きつけられた。
息ができない。
脇腹が呼吸のたびに軋み、口の端から血が落ちる。左手首は焼けるように痛いのに、指先はもう動かなかった。
短剣の光は消えていた。
「なに、今の」
女の子の声が遠くで聞こえた。
アレンにも分からなかった。
分からない。
分からないことばかりだった。
斥候は動かない。
女の子は生きている。
それなのに、勝った気がしなかった。
アレンは空を見上げた。
白い雲が流れている。
村を出た時と同じ空なのに、もう同じ世界には見えなかった。
あの光は、何だったのか。
制御できていなかった。狙ったわけでも、理解したわけでもない。ただ何かが溢れて、外に出た。斥候を倒したのは自分だが、自分ではない何かがやったという感覚の方が正確だった。
これが「共鳴」なのか。
親父さんは何も教えてくれなかった。短剣がいつか目を覚ますとだけ言った。それが何を意味するのか、今もまだ分からない。
分からないが、女の子は生きている。
今は、それだけでいい。
遠くから車輪の音が近づいてきた。
通りかかった旅人の一団らしい。女の子へ駆け寄る足音と、荷馬車を起こそうとする声が重なる。
アレンは指一本動かせなかった。
意識が沈みかけた時、誰かの声がした。
「おい、生きてるぞ。この子も、そこの兄ちゃんも」
別の声が答える。
「魔王軍の斥候を吹き飛ばしたのか? 一人で?」
「分からん。だが、このまま置いてはいけない」
足音が近づく。
旅人たちの声だった。
アレンは目を開けようとした。
開かなかった。
最後に聞こえたのは、低い男の声だった。
「霧港ヴァルへ運ぶ。あそこなら腕のいい連中がいる」
少し間があった。
「義賊ローグを知っているか」




