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第003話 錆びた短剣

 夜が明けても、村は朝にならなかった。


 空は白み始めている。


 東の森の向こうから、いつもなら細い光が畑に落ちる時間だった。マルタ婆さんが礼拝堂の花瓶に水を入れ替え、トマが見張り台で大きなあくびをして、リオが鶏小屋の前で叱られる時間だった。


 けれど、ソルヴェイ村には朝が来ていなかった。


 煙が、まだ低く残っている。


 焼けた木の匂い。


 濡れた灰の匂い。


 そして、アレンの左手首から離れない、焦げた布と皮膚の匂い。


 アレンは村の入口に立っていた。


 立っているだけで、足の裏が痛い。いつから裸足だったのか覚えていない。昨夜、どこを走ったのかも、どこで倒れたのかも、ところどころ抜け落ちていた。


 ただ、親父さんの声だけが残っている。


 生きろ。


 礼拝堂の床下だ。


 短剣がある。


 お前が勇者だ。


「違う」


 声に出しても、誰も返事をしなかった。


 アレンは村へ入った。


 井戸は無事だった。


 昨日、油を差した滑車も残っている。桶は半分だけ焦げ、縄は黒くなっていた。水を汲もうとして、左手首に痛みが走る。


「っ」


 袖をめくると、火傷がそこにあった。


 手首を一周するように、赤黒い痕が残っている。まるで熱い鎖を巻かれたみたいだった。触れると痛い。触れなくても痛い。


 アレンは水をかけた。


 痛みは消えなかった。


 むしろ、水に触れた瞬間、奥の方で何かが脈を打った。


 生きているみたいに。


 アレンは手首を押さえ、歩いた。


 畑は踏み荒らされていた。


 朝、親父さんが土を砕いていた場所は黒くえぐれている。鍬が一本、折れて転がっていた。その近くで、アレンは膝をついた。


 親父さんは、そこにいた。


 顔には煤がついていた。


 目は閉じている。


 いつもの顔ではなかった。痛みも、叱る時の硬さも、笑おうとした歪みも、もう何も残っていない。ただ静かだった。


「親父さん」


 呼んだ。


 返事はない。


 分かっていた。


 分かっていても、呼んだ。


 アレンは近くの土を手で掘った。鍬は折れていて使えない。指先に泥が入り、爪が割れる。左手首が何度も痛み、息が詰まる。


 深くは掘れなかった。


 それでも、できるだけ土を寄せた。最後に折れた鍬の柄を立て、煤を拭った石を根元へ置いた。


 手を止めた後、しばらくその場を動けなかった。


 親父さんの顔が、目を開いているところを思い出せなかった。笑っている顔なら思い出せる。叱っている顔も。黒パンを投げてよこす顔も。でも今、閉じた目の前では、どの顔も正しい位置に戻ってこなかった。


 それが怖かった。


 記憶がまだここにあるうちに、何かをしなければならない気がした。それが土を掘ることだったのか、短剣を探すことだったのか、生き続けることだったのか、アレンには分からない。


「ごめん」


 何に対しての言葉なのか、自分でも分からなかった。


 守れなかったこと。


 置いて逃げたこと。


 生きていること。


 全部が一つになって、喉の奥に詰まっていた。


「ごめん」


 もう一度言った。


 風が吹いた。


 灰が舞い上がる。


 その灰の向こうに、礼拝堂が見えた。


 屋根は半分落ちていた。


 扉は焼け、鐘楼は折れている。祭壇のあった奥側は崩れ、床板の一部がめくれ上がっていた。昨日まで空の花瓶が置かれていた場所には、黒い破片だけが残っている。


 アレンは立ち上がった。


 礼拝堂の床下だ。


 親父さんの声が、また聞こえた気がした。


「短剣」


 なぜ、そんなものがあるのか。


 なぜ、親父さんが知っていたのか。


 なぜ、自分が勇者なのか。


 何も分からない。


 分からないが、他に残っているものもなかった。


 アレンは礼拝堂へ入った。


 足を踏み入れると、床板が軋んだ。昨日までと同じ音だった。けれど、同じなのは音だけだった。


 奥へ進む。


 焼けた木材をどかす。手首が痛む。右手だけでは足りず、左手も使う。火傷に灰がつき、涙が出るほど痛い。


 それでも、どかした。


 めくれた床板の下に、石の箱があった。


 古い箱だった。


 蓋には文字のようなものが刻まれているが、煤とひびで読めない。鍵はない。アレンが両手をかけると、石の蓋は重く、少しずつずれた。


 中にあったのは、短剣だった。


 錆びていた。


 刃は赤茶け、柄の革は乾いてひび割れている。武器というより、捨て忘れられた鉄片に見えた。


 ただ、奇妙なことに刃こぼれがなかった。厚い錆の下を、髪の毛ほど細い銀色の線が走っている。


 光を当てれば見えるが、影に入ると消える。見えているのか、見えていないのか、判断できない種類の光だった。


「これが」


 勇者。


 その言葉とは、あまりにも遠かった。


 アレンは短剣に触れた。


 瞬間、左手首の火傷が疼いた。


 痛みではなかった。


 いや、痛みでもあった。


 けれどそれだけではない。熱が、手首から胸の奥へ走る。昨日の火とは違う。焼く熱ではなく、何かを思い出させるような熱だった。


 何を、と問われると答えられない。ただ、忘れてはいけないものがここにあると、体が先に知っていた。


 火傷と短剣が、同じ速さで脈を打つ。


 短剣の錆が、ほんの一瞬だけ光った気がした。


 アレンは息を止めた。


 次の瞬間には、何も起きていなかった。


 短剣は錆びたまま。


 礼拝堂は崩れたまま。


 村は戻らない。


 親父さんも戻らない。


「勇者なんかじゃない」


 アレンは短剣を握りしめた。


 柄が手のひらに食い込む。痛い。左手首も痛い。胸の奥も痛い。


「俺は、何も守れなかった」


 声は礼拝堂の壊れた壁に吸われていった。


 答える者はいない。


 それでも、短剣を置いていくことはできなかった。


 親父さんが最後に残したものだった。


 アレンは、短剣を布で包んだ。焼け残った袋に入れ、肩にかける。


 布越しなのに、歩くたび、左手首と袋の中の鉄が同時に震えた。


 村を出る前に、もう一度だけ振り返った。


 井戸。


 昨日、油を差した滑車が残っていた。あそこで桶を引き上げると、冬でも冷たい水が出た。


 畑。


 親父さんが毎朝、日が昇る前から土を耕していた。固い土を手で砕き、一言も文句を言わずに。


 見張り台。


 トマが毎朝あくびをしていた。危険を知らせた時、あいつは台から飛び降りて、それでも鐘を鳴らし続けた。


 礼拝堂。


 空の花瓶に、毎朝水だけが入っていた。


 全部が昨日までの形を失っていた。


 それでも、そこはアレンの村だった。


「行ってくる」


 誰に言ったのか分からない。


 親父さんか。


 村か。


 それとも、勇者と呼ばれた自分か。


 分からないまま、アレンは村の外へ一歩踏み出した。


 振り返らなかった。


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