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第002話 夜が村を食べた

 鐘は、そこで止まらなかった。


 三度目の音が消える前に、四度目が鳴った。


 五度目。


 六度目。


 誰かが叫んだ。


「東から来る! 逃げろ!」


 アレンは畑へ向かって走っていた。


 足の下で土が跳ねる。夕方前の光はまだ明るいのに、東の森の上だけが夜みたいに黒かった。煙が太くなっている。まっすぐ上がっていた黒煙は、今は風に押され、村へ向かって倒れ込んでいた。


 火事ではない。


 そう思った瞬間、森の端から何かが出てきた。


 獣に似ていた。


 けれど獣ではなかった。


 前足の代わりに長い腕があり、背中から黒い骨のようなものが突き出している。顔は潰れ、口だけが裂けていた。首には、黒い鉄の輪がはまっている。


 輪の表面には、三本爪を組み合わせた紋章が刻まれていた。親父さんが、魔王軍の印だと教えてくれたものだった。


 森の奥で、金属を打つ乾いた音がした。


 獣たちは同時に顔を上げた。


 ばらばらに迷い込んだ獣ではない。誰かの合図で動いている。


 それが一匹、二匹、森の影から滑り出す。


 村人たちの足が止まった。


 止まったことが、間違いだった。


「走れ!」


 親父さんの声が畑を裂いた。


 その声で、村が動き出した。


 母親たちは子どもを抱え、年寄りは互いの腕を引く。トマが見張り台から飛び降り、足をもつれさせながらも鐘を鳴らし続けた。マルタ婆さんは礼拝堂へ向かいかけ、途中で引き返してリオの手を掴んだ。


 アレンも走った。


「リオ!」


「アレン兄ちゃん!」


 リオが泣いていた。


 マルタ婆さんの手を振りほどき、畑の方へ戻ろうとしている。小屋に残した犬を呼んでいるのだと、アレンは遅れて気づいた。


「行くな!」


 アレンはリオを抱えるようにして引き戻した。


 その直後、鶏小屋が潰れた。


 黒い腕が屋根を叩き割り、木片が飛ぶ。朝、アレンの腕を蹴った鶏が、羽音だけを残して見えなくなった。


 リオの体が震えた。


「犬が」


「今は走る」


「でも」


「走るんだ」


 自分の声が思ったより強く出て、アレンは少し驚いた。


 リオをマルタ婆さんへ押し返す。


「西の道へ」


「アレンは」


「親父さんを呼ぶ」


 マルタ婆さんが何か言おうとした。だが、次の鐘の音にかき消された。


 七度目。


 もう数えている者はいなかった。


 村の東側が燃え始めていた。


 火は赤いはずなのに、黒く見えた。煙が濃すぎるせいか、燃えているものが普通ではないせいか、アレンには分からない。分からないまま、畑へ走った。


 親父さんはそこにいた。


 畑の端で、倒れた老人を背負い上げている。朝、文句を言いながら鍬を振っていた老人だった。


「親父さん!」


「こっちへ来るな!」


 怒鳴られた。


 それでも足は止まらなかった。


 黒い獣が畑へ入ってきた。土を蹴り、爪を立て、作物を踏み潰しながら迫ってくる。親父さんは老人を背負ったまま、逃げきれない。


 アレンは近くに落ちていた鍬を拾った。


 重い。


 手が震える。


 それでも、構えた。


「こっちだ!」


 叫ぶと、獣の顔がこちらを向いた。


 裂けた口の奥で、黒い息が揺れる。


 怖い。


 足がすくむ。


 それでも、リオの顔が頭に残っていた。マルタ婆さんの手。見張り台から降りるトマ。朝の畑。固い黒パン。


 アレンは鍬を握り直した。


 獣が跳んだ。


 速かった。


 鍬を振るより先に、衝撃が来た。肩から地面へ叩きつけられ、息が抜ける。胸の上を爪がかすめ、服が裂けた。


 痛い。


 声が出ない。


 獣の腕が、もう一度振り上がる。


 その前に、親父さんが割って入った。


「アレン!」


 太い腕がアレンを突き飛ばした。


 アレンは畑の泥に転がった。


 何かが裂ける音がした。


 振り返ると、親父さんが膝をついていた。


 背負っていた老人は地面に投げ出され、咳き込みながら這っている。親父さんの脇腹から、赤いものが流れていた。


「親父さん」


 アレンは立とうとした。


 立てなかった。


 足が震えている。


 親父さんは片手で腹を押さえ、もう片方の手で落ちていた鍬を掴んだ。


「行け」


「嫌だ」


「行け、アレン」


「嫌だ」


 言葉がそれしか出てこなかった。


 親父さんは笑った。


 いつもと同じ顔ではなかった。痛みで歪んでいる。それでも、笑おうとしていた。


「二歩目を考えろって、言っただろうが」


「まだ、覚えてない」


「なら、今覚えろ」


 獣がまた近づいてくる。


 親父さんはアレンの襟を掴んだ。驚くほど強い力だった。


「礼拝堂の床下だ」


「何を」


「短剣がある。錆びた、古い短剣だ」


 アレンは意味が分からなかった。


 今、短剣の話をする理由が分からない。


「あれは、ただの刃じゃない」


 親父さんの声がかすれた。


「お前が勇者だ。アレン」


 親父さんはそこで言葉を切った。


 息を吸おうとして、浅く咳き込む。血の混じった息が、アレンの頬に触れた。


 世界が、一瞬だけ遠くなった。


 鐘の音も、火の音も、獣の息も、全部が薄くなる。


「違う」


 アレンは首を振った。


「俺は、そんな」


「いつか目を覚ます。だから、生きろ」


 親父さんの手が、アレンの胸を押した。


 その手から力が抜けた。


「親父さん」


 返事はなかった。


 獣が吠えた。


 アレンは親父さんの肩を掴もうとした。掴んで、引きずってでも逃げようとした。


 その時、燃え落ちた柵の梁が崩れた。


 熱が左側から襲ってくる。


 反射的に腕を上げた。


 焼ける匂いがした。


 左手首に、白い痛みが走った。


「っ……!」


 声にならない声が漏れる。


 火が袖に移り、アレンは泥に腕を押しつけた。焼けた布を引き剥がすと、赤黒い痕が手首を一周していた。


 痛みが消えない。消えないどころか、そこだけが心臓になったみたいに脈を打つ。


 親父さんは動かない。


 村が燃えている。


 鐘はまだ鳴っている。


 アレンは、何も守れていなかった。


 それでも、親父さんの最後の力が、アレンを立たせた。


 生きろ。


 その言葉だけが、焼けた手首の痛みの奥で残っている。


 礼拝堂の方角を見るたび、火傷の脈が一つ強くなった。


 アレンは親父さんから手を離した。


 離したくなかった。


 けれど、離した。


 火の向こうで、礼拝堂の屋根が黒煙に沈んでいく。


 床下。


 錆びた短剣。


 勇者。


 どれも分からない。


 分からないまま、アレンは燃える村の中を走り出した。



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