第001話 勇者ではなかった少年
王道群像ファンタジーです。
ひとりの未完成な勇者と、別々の道を歩く仲間たちの物語を、最後までお楽しみいただければ幸いです
「お前が勇者だ」
その声を、アレンはまだ覚えている。
炎の中だった。左手首が焼けるように痛んで、視界が揺れて、地面が遠くなった。それでも耳の奥には、その声だけが残った。
——なぜ、あなたが死ぬんだ。
村が燃えた夜の話だ。
その三日前の朝まで、アレンはまだ勇者ではなかった。
少なくとも、ソルヴェイ村の誰も、彼をそんなふうには呼ばなかった。
「アレン、井戸の桶がまた軋んでる。見てくれるかい」
「分かった」
「アレン、礼拝堂の裏に薪を運んどいておくれ。昼まででいいから」
「うん」
「アレン兄ちゃん、鶏が逃げた!」
「……どっちへ」
村の朝は、いつも頼まれごとから始まる。
グランツ辺境領のさらに東。魔王圏に近い丘陵の端に、ソルヴェイ村はへばりつくようにあった。家は数えるほどしかなく、畑も広くはない。風が強い日は、東の森から湿った土と獣の匂いが流れてくる。
それでも村は生きていた。
井戸の水は冷たく、パンは固く、子どもは朝から走り回る。年寄りは文句を言いながら畑へ出て、母親たちは洗濯物を干し、見張り台の上では眠そうな青年トマがあくびをかみ殺している。
アレンは井戸の滑車に油を差し、礼拝堂の裏へ薪を積み、逃げた鶏を畑の隅で捕まえた。
鶏は羽をばたつかせ、アレンの腕を蹴った。
「痛い」
思わずこぼすと、追いかけてきた子どもたちが笑った。
「アレン兄ちゃんでも痛いんだ」
「痛いものは痛い」
「強そうなのに」
「強くない」
アレンがそう言うと、リオという少年が、納得したような、していないような顔をした。
十八になったアレンは、村では背の高い方だった。銀灰色の髪は寝癖がつくと直りにくく、藍色の目は、よく「眠そうだ」と言われる。力仕事を頼まれる程度には体もできている。
けれど、それだけだ。
剣が特別にうまいわけではない。魔法が使えるわけでもない。領主の血を引いているわけでも、神殿に選ばれたわけでもない。
誰かが困っていたら手を貸す。重いものがあれば運ぶ。壊れたものがあれば直す。
それだけの、村の若者だった。
子どもの頃、アレンは自分に何か特別なものがあると信じていた時期があった。
理由は特になかった。ただ、人が秘密を持つように、村の外に行けば違う自分になれる気がしていた。その予感は成長とともに静かに薄れていき、今では鶏を追いかけて足を蹴られ「痛い」と言う十八歳になっていた。
それでよかった、と思っている。
少なくとも、村の誰かが困るたびに役に立てることは、特別ではなくても確かなことだった。
鶏を小屋へ戻すと、畑の向こうから低い声が飛んできた。
「アレン。昼前に森の境を見てきてくれ」
声の主は、アレンの育ての親だった。
村の者はみな、彼を親父さんと呼ぶ。アレンもそう呼んでいる。血はつながっていないが、アレンにとっては、それで十分だった。
親父さんは畑の土を手で砕きながら、東の森を見ていた。
「また柵か」
「いや。昨日、妙に獣が寄らなかった。静かすぎる」
「静かなら、いいことじゃないのか」
「そう思える場所ならな」
親父さんは短く笑った。
ソルヴェイ村では、東の森を軽く見ない。
森を越えれば、地図の色が薄くなる。そこから先は、魔王圏に近い。魔王軍を実際に見たことのある者は村には少ないが、見張り台の鐘の鳴らし方は、子どもでも知っている。
一度なら火事。
二度なら獣。
三度なら、逃げろ。
アレンは東の森を見た。
朝の光を受けた木々は、いつもと変わらない。梢が揺れ、鳥が飛び、薄い霧が地面を這っている。
何もないように見えた。
「分かった。見てくる」
「一人で奥まで行くなよ」
「行かない」
「お前はそう言って、だいたい一歩余計に前へ出る」
アレンは返事に困った。
親父さんは土のついた手を払い、アレンの額を指で軽く弾いた。
「痛い」
「痛くした。覚えろ」
「……覚えた」
「ならいい」
そう言って、親父さんは畑へ戻ろうとして、ふと思い出したように腰の袋を探った。
「ほら」
投げられたものを、アレンは両手で受け取った。固い黒パンの端だった。
「朝、食ってないだろ」
「食べた」
「嘘が下手だな」
「……少し食べた」
「それは食ったとは言わん」
親父さんは、畑の畝に腰を下ろした。アレンも少し離れて座る。黒パンは固く、噛むたびに歯がきしんだ。けれど、腹の奥に落ちると温かかった。
「お前は、誰かが倒れそうになると先に足が出る」
親父さんが言った。
「悪いことか」
「悪いことじゃない。だが、足だけ先に出すな。二歩目を考えろ」
「二歩目」
「そうだ。一歩目で守って、二歩目で生き残れ。守った相手の前で死ぬな」
アレンは黒パンを噛む手を止めた。
親父さんは東の森を見ている。いつもと同じ顔だった。冗談を言う時も、叱る時も、天気を読む時も、だいたい同じ顔をしている。
「難しいな」
「難しいから覚えろ」
「……覚えた」
「今のは半分くらいだな」
親父さんはそう言って、また畑へ向かった。
アレンはしばらくその背中を見ていた。
広くもない背中だった。昔はもっと大きく見えた気がする。薪割りをして、畑を耕して、村の喧嘩を止めて、夜には古い毛布をアレンへ譲ってくれた背中。
特別な人ではない。
でも、アレンには必要な人だった。
「二歩目を考えろ」
呟いてみると、少しだけ咀嚼できる気がした。
一歩目で守る。二歩目で生き残る。守った相手の前で死ぬな。
言葉にすれば単純だが、実際にはどちらを先に考えればいいのか、アレンにはまだよく分からない。倒れている人を見れば足が出る。自分のことを考える前に体が動く。これは良いことではなく、悪いことでもなく、ただアレンのやり方というだけだ。
親父さんは、それを知った上で「覚えろ」と言う。
知っているから言う。
そのことが、アレンには何より嬉しかった。
昼前、アレンは礼拝堂の裏に積み残した薪を片づけた。
村外れの礼拝堂は、小さく古い。石壁の一部は欠け、扉は傾き、鐘楼は村の見張り台より低い。それでも村人は、季節の節目にはここに集まる。生まれた子の名を告げ、死んだ者の名を刻む。
床板はところどころ沈み、奥の祭壇には、誰が置いたのか分からない古い花瓶があった。花はない。けれどマルタ婆さんは毎朝、空の花瓶に水だけを入れ替える。
「花もないのに」
アレンが一度だけそう言った時、マルタ婆さんは笑った。
「花が戻ってきた時、すぐ挿せるだろう」
その答えがよく分からないまま、アレンは今も水を替えるのを手伝っている。
アレンは礼拝堂の床を掃き、割れた窓から東の空を見た。
森がある。
その向こうに、見えない境界がある。
地図の上では、森の向こうから色が薄くなる。名前のない土地が続き、やがてどの国の管轄にもならない灰色の余白になる。旅商人がたまに語る話では、その先に進んだ者のほとんどは戻らないという。
戻った数少ない者が口にするのは、必ず「暗かった」という言葉だ。
光がない、という意味ではないらしい。空はある。だが空気の質が違う。息を吸うたびに何かが削られる気がすると、老いた行商人は首を振りながら言っていた。
アレンは時々、その境界のことを考える。
もし村の外へ出たら、自分は何になれるのだろう。何者でもない自分が、どこまで行けるのだろう。
考えても、答えは出ない。
今はまだ、それでいいとも思っている。村の誰かが困るたびに呼ばれる。それに応えるだけで、一日は終わる。
それが、今のアレンの場所だった。
出ないまま、いつも誰かに呼ばれる。
「アレン! こっちも頼む!」
「今行く」
そうして一日は進む。
夕方前、空気が変わった。
最初に気づいたのは、音だった。
鳥の声が消えていた。
アレンは薪を抱えたまま立ち止まった。礼拝堂の裏手からは、東の森がよく見える。風は西へ流れているのに、森の上だけが妙に重く沈んでいた。
黒いものが、上がっている。
煙だった。
細く、まっすぐな黒煙。
畑の野焼きではない。炊事の煙でもない。もっと濃く、もっと低く、地面から何かを引きずり出すような煙だった。
アレンの手から薪が滑った。
腕が動いたのか、力が抜けたのか、自分でも分からなかった。
乾いた音が、礼拝堂の壁に当たって跳ねる。
頭の中で何かが動いている。状況の整理より先に、体が答えを出そうとしていた。
東の森。煙。鳥の声がない。静かすぎる——親父さんが、今朝そう言っていた。
「親父さん」
声は思ったより小さかった。
喉が上手く動かなかった。舌が乾いていた。頭だけが妙に冷えていて、同時に何も考えられなくなっていた。
アレンは走り出した。
足が先に出た。
二歩目は、走りながら考えるしかなかった。
畑へ向かう途中、見張り台のトマが東を見て固まっているのが見えた。彼の手が、鐘の綱へ伸びる。
アレンは息を吸った。
一度なら火事。
二度なら獣。
三度なら、逃げろ。
鐘が鳴った。
一度。
村人たちが顔を上げる。
二度。
マルタ婆さんが空の花瓶を抱えたまま立ち尽くした。リオの笑い声が止まった。
そして、三度目の音が、ソルヴェイ村の朝と同じ空を裂いた。
鐘は、そこで止まらなかった。
アレンの旅は、まだ始まっていません。
次話「夜が村を食べた」。村の鐘が鳴ります。
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