第048話 笑えなくなった夜
「心配するな! 俺が来たからには、もう大丈夫だ!」
ボルドの声が、夕暮れの街道へ響いた。
道端で休んでいた避難民たちが顔を上げる。
荷車は壊れ、毛布は泥に濡れていた。ハンマー村の周辺にある小さな集落から逃げてきた者たちだ。
二十人ほどいるのに、声を出す者がほとんどいない。
火を焚けば見つかると恐れ、冷えたまま一晩を越すつもりだった。幼い子を抱く母親は、泣き声を抑えるため自分の袖を噛ませている。
ボルドは護衛へ周囲の警戒を命じ、荷車を風除けに並べた。
「火は俺たちが守る! 寒さまで敵に回す必要はねえ!」
力で解決できることなら、迷わず動ける。
ボルドは保存食の箱を開け、パンと干し肉を配った。
「食え! 腹が減ると、悪いことばかり考える!」
子どもが少し笑った。
その笑顔を見て、ボルドもいつものように大きく笑う。
「ガハハ! 魔王軍だろうが何だろうが、俺がまとめて」
「連れていかれた子どもが、まだ帰ってこない」
老人の声で、笑いが途切れた。
老人は空になった荷車を見つめていた。
そこには小さな靴が片方だけ残っていた。
孫が二人、夜の襲撃で奪われた。追いかけた息子は傷を負い、まだ別の避難所で眠っている。
「兵は、食糧より先に子どもを選んだ。泣いている子を袋へ入れて、鉱山の方へ」
ボルドの手から、配りかけのパンが落ちた。
拾おうとして、指が動かない。
笑えば周囲が安心することを、ボルドは知っている。
幼い頃から、腹が減っても笑った。父を亡くした日も、母が働き詰めの日も笑った。自分が一番大きな声を出せば、隣の誰かが泣かずに済んだ。
だが今、笑い声を出せば老人の痛みを踏みつける気がした。
ミアが老人へ質問する。
兵の数。武器。進行方向。術式の色。襲撃の時刻。
声は冷静だったが、算盤を持つ指に力が入っている。
「不死術式は、生きた魔力脈を土台にする場合があります」
「何を言ってる」
「連れ去った人を、実験材料にしている可能性があります」
ボルドの笑顔が消えた。
怒鳴りもしない。
天秤棒を握る手だけが、鉄を軋ませる。
「まだ、生きてるか」
「分かりません」
ミアは嘘をつかなかった。
「ですが実験なら、すぐ殺すとは限りません。急げば間に合う可能性はあります」
「何割だ」
ミアは答えに詰まった。
数字を求められれば、いつもならすぐ返せる。今回は敵の人数も、実験の進行も分からない。計算に必要な値が足りなかった。
「出せません」
「そうか」
ボルドは責めなかった。
出せない数字を、安心のために作らないこともミアへの信頼だった。
夜営地を作っても、ボルドは食事に手をつけなかった。
いつもなら三人分を平らげ、護衛へもっと食えと笑う男が、火の前で黙っている。
「俺は、ハンマー村を出る時に言ったんだ」
低い声だった。
「でっかい商人になって、村ごと腹いっぱいにしてやるって」
カルクで稼ぎ、いつか故郷へ大きな仕事を持ち帰る。その間に村が襲われるとは思わなかった。
「俺がもっと早く帰ってれば」
「早く帰れば、カルクで助けた人々は助かりませんでした」
ミアは一度だけ言い、それ以上は慰めなかった。
過去の正解を作ることはできない。今ある人員、物資、時間から、助けられる未来を増やすしかない。
ミアは励まさなかった。
遅くないとも、ボルドのせいではないとも言わない。
地図へ避難所を書き込み、残った薬と食糧を数える。
ボルドの分の食事は、火のそばへ置いた。
食べろとも、休めとも言わない。
ミア自身も食事を半分残し、薬箱の中身を確認し続けた。数字を数える手を止めれば、連れ去られた子どもの顔を想像してしまう。
「明日の朝、最短経路と救出に使える人員を計算します」
それだけ言って、隣へ座った。
火が小さくなる。
二人は言葉を交わさず、交代の鐘が鳴るまでそこにいた。
夜半、ボルドは冷えた食事をようやく口へ運んだ。
「明日、殴るために食う」
「救うためです」
ミアが訂正する。
ボルドはしばらく黙り、頷いた。
「救うために、食う」
夜明け前、ボルドはミアが広げた地図の前へ座った。
「俺は何をすればいい」
昨日までなら、先に走り出してから役目を聞いただろう。
ミアは眠らずに作った三本の経路を指す。
笑えない夜を越えたあと、二人は怒りを作戦へ変え始めた。
地図の隣には、何も書かれていない手帳があった。
損失も、勝率も、評価も。
連れ去られた命を、まだ数字へ変えたくなかった。
空白の頁だけを残し、必ず帰還者の名で埋めると決めた。
朝の光が差したあとも、頁は開いたままだった。
そこへ書く名を、一人でも多く取り戻すために。




