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第045話 算盤が飛ぶ

 ボルドの拳が倉庫の扉へ届く寸前、算盤が後頭部へ直撃した。


「痛え!」


「扉を壊せば、こちらが犯罪者です」


 ミアは投げた算盤を受け取り、何事もなかったように珠を確かめた。


 倉庫の中には、ボルド商会が買ったはずの鉄材がある。


 契約書には上質な鍛冶用鉄百箱と記されていた。だが納品された箱へ入っていたのは、錆びた農具を溶かした粗悪品だった。


 売り手の商人は倉庫へ品物を隠し、契約どおり渡したと言い張っている。


 詐欺に最初に気づいたのは、ミアではなくボルドだった。


 納品された箱を持ち上げた瞬間、「軽い」と言った。


 上質な鍛冶用鉄なら百箱で荷車の車輪がこの深さまで沈む。粗悪品では轍が浅い。数字にはできなくても、何千回と荷を担いだ身体が重さの嘘を覚えていた。


 ミアが箱の封を調べ、契約書と違う釘が使われていることを確認した。


 ボルドの感覚が入口を見つけ、ミアの証拠が逃げ道を塞ぐ。


「つまり、あいつは嘘をついてる!」


「そこまでは合っています」


「なら扉を開けて、鉄を取り返す!」


「間違いです。三行で説明します。第一に、不法侵入。第二に、器物損壊。第三に、証拠能力の消失」


「もっと短く」


「殴ると負けます」


「分かった」


 ボルドは素直に拳を下ろした。


「じゃあ、勝つ方法を言え」


「それを今から作ります」


 売り手の商人は通りの向こうで、こちらを見て笑っている。ボルドが扉を壊すのを待っている顔だった。不法侵入を理由に訴え、契約違反の話を潰すつもりなのだ。


「あいつ、俺が殴ると思ってるな」


「普段の行動が信用として積み上がった結果です」


「悪い信用だな!」


「ようやく理解しましたか」


 ミアは市場組合へ提出する帳簿を開く。


 王都商会で働いていた頃、彼女は数字の誤差を見つけても、上司に都合が悪ければ黙るよう命じられた。今は違う。ボルドは難しい説明を嫌うが、理解した後は彼女の判断を疑わない。


 王都商会を辞めた日、ミアは不正な帳簿の写しを抱えていた。だが一人の経理士の訴えは、大商会の看板に押し潰された。


 その帰り道で、荷車を一人で引くボルドに雇われた。


「帳簿が読めるなら来い。俺は苦手だ」


 採用理由はそれだけだった。


 けれど初めて、自分の数字を都合よく曲げずに使う相手を得た。


「倉庫の所有者は詐欺商人ではありません。今月分の賃料も未払いです」


「じゃあ?」


「所有者へ未払いを知らせます。倉庫は正式に封鎖され、中身は差し押さえ。取引記録を市場組合へ回せば、同じ被害に遭った商会も名乗り出ます」


 ミアは既に三通の通知書を書き終えていた。


 半刻後、倉庫主と市場組合の監査人が到着した。


 扉は正規の鍵で開けられ、奥から上質な鉄材だけでなく、他商会から騙し取った香料や布まで見つかった。


 詐欺商人は逃げようとした。


 同じ契約書を持つ小さな商会の者たちも集まっていた。


 被害額が一件では少なくても、合計すれば金貨百枚を超える。売り手は、訴える力のない小商人ばかりを狙っていた。


 ボルドが道を塞ぐ。


「殴らなければいいんだな?」


「はい。立っていてください」


 ボルドは笑って両腕を組んだ。


 逃げ道が人の形に塞がれた。


「殴らねえ。だが逃がしもしねえ」


 ボルドの声から笑いが消える。


 人の弱さを見て奪う商売を、彼は最も嫌った。


 商人は三歩下がり、監査人へ捕まった。


 差し押さえた荷物を市場組合へ運ぶ作業だけは、ボルドの独壇場だった。百箱の鉄材を次々と荷車へ積み、他の人夫が一日かける仕事を一刻で終える。


 被害品は契約記録に従って各商会へ返される。ボルド商会には鉄材と違約金が戻り、作業を手伝った分の運送料まで組合から支払われた。


 ミアは収支を確認する。


 扉を壊していれば赤字。壊さなかった結果は、信用を含めて大幅な黒字だった。


 ボルドは自分の鉄材より先に、小さな商会の荷物を運んだ。


「うちは俺が運べる。こいつらは今日中に店へ戻さなきゃ潰れる」


 損失の大きさではなく、損失へ耐えられる余力を見て順番を決めている。


 ミアは帳簿の配分をその順へ直した。


 数字だけなら平等に返せばよい。だが同じ銀貨十枚でも、大商会と露店では重さが違う。


 ボルドは計算式を知らず、その重さだけは間違えなかった。


「どうだ、俺も役に立っただろう!」


「最後だけは」


「最初に扉を壊せば、もっと早かった」


 算盤がもう一度飛んだ。


 今度はボルドが天秤棒で受け止める。


 市場の見物人から笑いが起きた。


 怖がられていた巨漢は、殴らずに人を止められる商人として名前を覚えられた。


「なぜすぐ投げる!」


 ミアは眼鏡を押し上げた。


「あなたが頭を使わないからです」


 算盤の珠が、黒字を示す位置で止まった。



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