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第044話 筋肉商人、帳簿を破壊する

第3章「筋肉は裏切らない、頭も少しだけ使う」開幕。


豪快な商人ボルドと、冷静な経理士ミアの凸凹商会編です。

 荷車の車輪が、カルク大市場の真ん中で宙に浮いていた。


 朝の市場には、アルデインの麦、セルディアの鉄、ラフィアの香辛料が同じ通りへ並ぶ。売り声、値切る声、硬貨を確かめる音が幾重にも重なり、立ち止まれば背中から荷車に押される街だ。


 その一番混む交差路で、車軸の折れた荷車が完全に道を塞いでいた。


 持ち上げているのは馬でも滑車でもない。


 金髪を後ろへ撫でつけた巨漢、ボルド=ハンマーが、荷台ごと片手で持ち上げている。


 荷台には陶器が満載されている。傾ければ商品が割れるため、ボルドは腕力だけでなく、重心を確かめながら水平を保っていた。


 考えるより先に動く男だが、荷物の重さと壊れやすさだけは、手に乗せた瞬間に分かる。


「通路を塞ぐな! 客が通れねえだろうが!」


 怒鳴られた荷主は、最初こそ青ざめた。だがボルドが荷車を空いている区画へ運び、折れた車軸まで天秤棒で叩いて直すと、目を丸くした。


「あんた、運送屋か?」


「商人だ! 運ぶ、売る、直す、食う! だいたいやる!」


「最後は仕事じゃないだろ」


 荷主が笑う。


 ボルドはその笑顔を見逃さなかった。


「今ならカルクから北の街まで、通常の八割で運ぶぞ!」


「急に商談を始めるな」


「困り事がある。俺が解決できる。商売成立だ!」


 ボルド商会の荷車は、午後に北へ出る予定だった。帰り荷が少なく、空きがある。陶器を積めば運送料が入り、荷主は今日の市を逃さずに済む。


 言葉にはしないが、商機を嗅ぐ速さは市場の誰より早かった。


「割ったら全額弁償だぞ」


「割らねえ! うちの荷車は揺れが少ない!」


「根拠は?」


「俺が悪路を均す!」


 実際、街道の大石を天秤棒で脇へ除けながら進むため、他の商隊より荷崩れが少ない。理屈の説明は雑でも、実績はあった。


 荷主は値段を六割まで下げろと言った。


 ボルドは考える代わりに、近くの樽を机にして肘を置く。


「腕相撲で決めよう!」


「なぜだ」


「俺が勝ったら八割。お前が勝ったら六割だ!」


 市場の人垣が一気に厚くなった。


 周囲の商人が勝手に賭けを始める。


 ミアが遠くから「賭博許可のない通りです!」と叫んだが、ボルドはもう荷主の手を握っていた。


 勝負は一呼吸で終わった。


 荷主の手を樽へ叩きつけた勢いで、樽が割れた。その破片が隣の商品棚へ飛び、棚が倒れ、さらに後ろの帳簿机まで巻き込んだ。


 陶器だけは、持ち上げた時と同じ位置に無傷で残っている。


 守るべき商品は守り、周囲を壊した。


 市場が静まり返る。


「契約成立だな!」


 ボルドだけが笑った。


 算盤の珠が、乾いた音を立てる。


 黒縁眼鏡の女が、倒れた帳簿机の向こうに立っていた。元・王都商会の経理士、ミア=コルト。今はボルド商会の帳簿と信用と、主にボルド本人を管理している。


「運送料の利益、銀貨十二枚」


「おう!」


「樽、銀貨四枚。棚、銀貨七枚。帳簿机、銀貨五枚。散乱した香辛料の弁償、銀貨九枚」


 ボルドの笑顔が少しずつ固まる。


「合計損失、銀貨二十五枚。差し引き十三枚の赤字です」


「だが契約は取ったぞ」


「信用損失はまだ計上していません」


「信用は筋肉で取り戻せる!」


「市場組合は筋肉を通貨として認めていません」


「なら、壊した物は俺が運んで直す!」


 ボルドは倒れた棚を起こし、散らばった香辛料袋を種類ごとに集め始めた。


 弁償を嫌がって逃げることはない。自分が壊したと分かれば、金でも労働でも必ず返す。


 ミアはその性質を知っているから、数字を容赦なく読み上げられた。


 ミアは眼鏡を押し上げ、壊れた机から帳簿を救出した。


 荷主が腹を抱えて笑いながら、運送契約書へ署名する。


「面白いから追加で二便頼む。壊した分はそれで取り返せ」


 人垣の中からも、北便の空きを尋ねる声が上がった。


 腕相撲を見物していた薬種商が一箱。布商が三梱。宣伝費を払わずに、荷台の空きが埋まっていく。


 ミアの算盤が再び鳴った。


「三便なら黒字です」


「見ろ! 計算どおりだ!」


「どの段階に計算がありましたか」


「最初からだ! 人が集まれば商売になる!」


「樽を割る必要はありません」


「そこは計算外だ!」


「今、認めましたね」


 ボルドはもう次の人だかりを見ていた。


 市場の反対側で、商人同士が倉庫の契約書を巡って怒鳴り合っている。


 彼は天秤棒を担ぎ、走り出した。


「商売は勢いだ! あと筋肉だ!」


 ミアは帳簿を抱えて追いかける。


 帳簿の余白には、壊した物の弁償額と同じだけ、新しく得た客の名が増えていた。


 計画性はない。だが、人を巻き込み、止まっていた物を動かす力は本物だ。


 ミアはその評価だけは口にしなかった。


「せめて弁償を終えてから次を壊してください!」



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