第041話 もう二度とその名で
「セラ」
アルフォンスは、婚約を結んだ頃だけ使っていた愛称で呼んだ。
北境の旧礼拝所。呪詛の雨が止み、割れた窓から朝の光が入っている。
王子はセラフィーナの前で膝をついたまま、顔を上げられない。
礼拝所の外では、呪詛から解放された近衛兵たちが次々と目を覚ましていた。自分が誰に剣を向けたのか思い出して嘔吐する者もいる。オズワルドと北境の治癒術師が、彼らを一人ずつ診ていた。
アルフォンスもまた、夜明けまで何度も意識を失った。けれど、目覚めた彼が最初に求めたのは負傷者の数ではなく、セラフィーナとの面会だった。
「すまなかった。私は、イゼベルに操られていた」
「はい」
「だが、それだけではないのでしょう」
アルフォンスは言葉を失った。
セラフィーナは刺客の命令書と、婚約前に保留された負担軽減案を床へ並べた。
「こちらは呪詛を受けた後の命令。こちらは受ける前の殿下の判断です。私は両方を分けて考えます」
王子を怪物にして全てを切り捨てない。
同時に、呪詛を理由に以前からの軽視まで消させない。
「君を追放した言葉も、刺客を送った命令も、私の本心ではない」
セラフィーナは彼の言葉を待った。
謝罪のあとに、何が続くのか。
「呪詛を受け始めたのは、いつからですか」
「おそらく、リーゼを王宮へ迎えた頃だ。あの娘が持ってきた香炉から、毎晩甘い匂いがしていた」
「では、リーゼ様はどうなりましたか」
アルフォンスは答えられなかった。
自分と同じく術式に利用された少女。その安否を、彼は確認していない。
操られていたという言葉だけでは、抜け落ちた責任まで埋まらなかった。
「だから、王都へ戻ってほしい。結界も治癒院も、君が必要だ。婚約もやり直せる」
礼拝所の入口で、担架に横たわるリーゼが目を開けた。
アルフォンスは一瞬そちらを見たが、すぐセラフィーナへ視線を戻した。
「まず、リーゼ様へ謝るべきではありませんか」
「彼女も私を欺いた」
「家族を人質にされ、呪詛の中継器にされた方です。それでも加担した責任を、ご本人は認めました」
アルフォンスの顔に、まだ自分だけが被害者だと思いたい色が浮かぶ。
セラフィーナはそれを見逃さなかった。
救われた直後の言葉こそ、呪詛が消えたあとに残る本人の選択だった。
やはり、必要という言葉だった。
リーゼを新しい聖女と呼び、今度はセラフィーナを元の座へ戻そうとする。そこにいる人間を見る前に、役目で女を分類する癖は変わっていない。
「殿下。操られる前のことを覚えていらっしゃいますか」
「もちろんだ」
「私が大結界の負担軽減をお願いした時、何と答えましたか」
アルフォンスの顔が強張る。
政務が忙しい。聖女なら耐えられる。民のためだ。
呪詛を受ける前から、彼はそう言った。
「治癒院の増員を求めた時も、私の定期検査で傷が見つかった時も、殿下は後回しになさいました」
「私は、君ならできると思って」
「私を信じていたのではありません。私が与え続けることに、甘えていたのです」
アルフォンスは顔を上げる。
「好意は本物だった。君を愛していた」
胸の奥に、昔の痛みが動いた。
彼と過ごした時間のすべてが偽物だったわけではない。優しくされた記憶も、笑った日もある。
それでも戻らない。
「好意と尊重は、同じではありません」
「では、私は君の何を知っていたというのだ」
問いではなく、独り言に近かった。
セラフィーナは答えを与えなかった。
彼女がどんな茶を好み、どんな時に疲れを隠し、休日に何をしたかったのか。アルフォンス自身が思い返さなければならないことだった。
「これから変わる。だから、もう一度」
「変わることは、私が戻るための取引ではありません」
「ならば、どう変わればいい」
「その答えまで、私に求めないでください」
アルフォンスの肩が揺れた。
「王都へ戻り、負傷者の名を聞いてください。リーゼ様を捜してください。あなたが命じたことを記録し、裁きを受けてください。私に許されるためではなく、殿下ご自身がこれ以上、誰かを道具にしないために」
「そして、私へ送った刺客の命令書を公開してください。操られていた部分と、ご自分で署名した部分を調査へ渡してください」
「王家の威信が失われる」
反射的に出た言葉だった。
アルフォンス自身が、口にしてから凍りつく。
イゼベルを犠牲にした四年前と同じ理由である。
「今、選べます」
セラフィーナは静かに言った。
「威信を守るか、傷つけた方々へ事実を返すか」
長い沈黙のあと、アルフォンスは命令書を拾った。
「公開する」
その選択は遅く、失ったものを戻さない。それでも彼が初めて、自分の体面より責任を選んだ瞬間だった。
「いつか、許してくれるだろうか」
「今は許しません」
未来の約束も付け加えなかった。許すかどうかを決める権利まで、彼の再生のために差し出す必要はない。
セラフィーナは一拍置いた。
怒鳴る必要はない。彼を傷つける言葉を探す必要もない。
自分の境界線を、自分で決めればいい。
「もう二度と、その名で私を呼ばないでください」
アルフォンスの唇から、愛称が消える。
「私はセラフィーナ=ヴェインです。あなたに都合のよい聖女ではありません」
彼女は深く礼をした。
婚約者としてではなく、一人の人間として別れるために。
礼拝所の門へ向かう。
ガウェインは何も言わず、少し離れた隣へ並んだ。勝ち誇ることも、王子を責めることもしない。
「何も、お尋ねにならないのですね」
「あなたが話したくなった時に聞きます」
それは、答えを急がせない言葉だった。
オズワルドが後ろから杖を鳴らす。
「正解だ」
礼拝所の外へ出る直前、背後でアルフォンスの声がした。
「待ってくれ」
セラフィーナの足が一瞬だけ止まる。
「近衛兵と、北境の負傷者の名簿を。私に見せてほしい」
今度の言葉は、彼女へ向けたものではなかった。
「リーゼの居場所も確認する。王都へ戻ったら、私の命令記録を封印させず提出する」
オズワルドが振り返る気配がした。
セラフィーナは振り返らない。
それが変化の始まりか、今だけの後悔かは、これからの行動が決める。彼の答えを見届ける役目まで、自分が背負う必要はなかった。
セラフィーナは振り返らなかった。
初めて、前だけを見て歩いた。




