第038話 祈りとは何か
セラフィーナは祈ろうとして、両手を止めた。
診療所の火は消え、負傷者もいない。それでも毎夜の習慣で、胸元へ手を重ねようとした。
祈祷台には、聖法院の定型文が刻まれている。
我が身を捨て、民へ尽くします。
何千回も唱えた言葉だった。
今は「我が身を捨て」という一節だけが、刃のように見える。
誰に、何を願っていたのだろう。
聖法院で教えられた祈りは、服従の言葉だった。
祈祷の最後には必ず、聖法院と王家への感謝を述べた。
治癒された者が聖女個人へ感謝すると、教師は「力を与えた制度へ感謝しなさい」と訂正した。
祈りは救いの言葉であると同時に、権威を守る仕組みにもされていた。
苦しみに耐えなさい。役目を果たしなさい。神は見ている。
イゼベルが欺瞞と呼んだものは、確かに存在する。
「祈りを捨てますか」
ガウェインが離れた場所から尋ねた。
「分かりません」
オズワルドは答えを言わず、割れた武器の破片を机へ並べている。
「教えてくださらないのですか」
「わしの答えを受け取れば、また誰かに決めてもらうことになる」
「答えが見つからなければ?」
「見つからぬまま考え続ければよい。急いで美しい答えを作ると、たいてい誰かの借り物じゃ」
オズワルドは祈祷台の定型文へ布をかけた。
消すのではなく、今は距離を置くために。
セラフィーナは目を閉じた。
王宮の命令で祈った記憶。
一方で、初めて弟の傷を癒やした時は、誰にも命じられていなかった。
弟は泣き止むと、泥のついた手でセラフィーナの頬へ触れた。
「お姉ちゃん、あったかい」
あの時、神や王家を考えてはいなかった。
ただ痛みが消えてほしいと願った。
熱を出した子どもの手を握った夜も、戦場で知らない兵士の痛みを軽くした時も、自分がそうしたいと選んだ。
すべてが欺瞞だったわけではない。
「私は、制度のために祈っていたのではありません」
言葉にすると、胸の空白へ形が生まれる。
「目の前の人を救いたいと思った。その選択まで、王宮へ渡したくありません」
「では、救いたくない日が来たら?」
ガウェインが尋ねる。
責める問いではない。
「休みます」
答えるまでに時間がかかった。
「誰かへ助けを求めます。それでも救えなかった時は、自分一人の罪にしません」
以前のセラフィーナなら言えなかった言葉だった。
ガウェインが頷く。
「怒っている私でも、ですか」
「あなたの怒りも、あなたの一部です。私はそれを恐れません」
「私が、あなたへ怒る日も?」
ガウェインは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……その時は、理由を聞きます」
「逃げないと?」
「努力します」
完全な誓いではない正直さに、セラフィーナは少し笑った。
セラフィーナは昨日生まれた光の刃を思い出す。
あれは憎しみで人を傷つける力ではない。
誰かを縛り、奪い、害するものを断つ力だった。
掌へ金色の細い光を生む。
光の先を、机上の三つへ順に向ける。
無害な紙。刺客の折れた剣。呪詛印。
紙には反応せず、剣の害意を断ち、呪詛だけを浄化する。
感情を消すのではなく、感情の向かう先を選ぶ訓練だった。
机の上の命令書へ触れると、紙は無傷のまま、呪詛印だけが二つに割れた。
「怒りではなく、断つべきものを選ぶ正義」
光が安定する。
「私は祈りを捨てません」
「なぜじゃ」
「欺瞞にしないために、自分で選び続けます」
セラフィーナは祈祷台の定型文へ布をかけた。
消すのではない。誰かに与えられた言葉を、自分の祈りと混同しないためだった。
新しい紙を置き、短い言葉を書く。
我が身を捨てず、隣人の痛みを見過ごさない。
一人で背負わず、助けを求める。
救う相手の意思を奪わない。
セラフィーナは四行目を加えた。
害した者の事情を知っても、受けた傷をなかったことにしない。
五行目も書く。
謝罪と償いを、許しと交換しない。
これからアルフォンスと向き合うなら必要な言葉だった。
救うことはできる。呪詛を断つこともできる。
それでも婚約へ戻るか、許すか、彼の将来を支えるかは別の選択である。
「これが、今の私の祈りです」
その時、拘束中の刺客が運び込まれた。
呪詛が抜ける反動で呼吸が止まりかけている。昨日、診療所へ火を放った男だった。
セラフィーナの身体が動かない。
救いたい気持ちと、近づきたくない恐怖が同時にある。
以前なら聖女だから治すと即答した。イゼベルなら敵だから見捨てろと言うだろう。
どちらも、今の自分の答えではない。
「オズワルド様。治療をお願いします。私は術式をお伝えしますが、触れません」
自分の境界を守りながら、相手の命も見捨てない方法を選んだ。
オズワルドが処置し、ガウェインが男の身体を押さえる。セラフィーナは離れた場所から呪詛の脈だけを読み上げた。
男の呼吸が戻る。
意識を取り戻した男は、セラフィーナを見るなり怯えて後ずさった。
「俺を裁くのか」
「私は裁判官ではありません」
「では許すのか」
「許してもいません」
男は理解できない顔をする。
敵なら殺し、救ったなら許す。その二択しか、彼も教わってこなかった。
「治療を受ける権利と、行ったことへ責任を負う義務は両立します。あなたの証言も、被害者の証言も記録します」
セラフィーナは近づかず、書記官を呼んだ。
男は香炉を運んだ経路と、命令に逆らった兵が地下牢へ入れられたことを話し始める。
治療したことが、加害の記録を消すのではない。生かしたからこそ、本人の口で責任の所在を明らかにできた。
許したわけではない。裁きを免じたわけでもない。
新しい祈りが、美しい文章だけでなく現実の選択として初めて使われた。
「明日、変わってもよいのか」
オズワルドが尋ねる。
「はい。間違いに気づいたら書き直します」
石へ刻まれた言葉は、永遠に正しいように見える。けれど人は変わり、傷も願いも変わる。祈りを守るために人を削るのではなく、生きる人に合わせて祈りを選び直せばよい。
セラフィーナは紙を二人へ見せた。
「私がまた自分を捨てようとしたら、教えてください」
「命令ではなく?」
ガウェインが確かめる。
「はい。最後に決めるのは私です」
「承知しました」
頼ることは、判断を渡すことではない。
言い切った時、祈祷台の古い定型文が淡く光った。
制度へ捧げた言葉ではなく、セラフィーナ自身の意味で上書きされたように。
壁の鏡へ、イゼベルが現れた。
「きれいな答え」
笑顔の奥で、瞳だけが怒っている。
「それが壊れるところを見せてあげる。次は本番よ」
鏡が砕けた。
床へ散った破片の一つ一つに、イゼベルの笑顔が映っていた。
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