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第036話 イゼベルとの初接触

 診療所の鏡の中で、セラフィーナだけが一拍遅れて顔を上げた。


 現実のセラフィーナは、治療を終えた患者へ祈りを捧げている。


 診療所の患者は、昨日治療を断った老人だった。


 約束どおり最初に診て、痛む腰へ軽い治癒を施した。老人は礼として乾燥果実を置き、笑って帰っていった。


 誰にも命じられず、自分で選んだ治療だった。


 その直後に、鏡像が祈りを疑った。


 鏡像は祈りの姿勢を解き、微笑んだ。


「その言葉、本当にあなたのもの?」


 鏡から響く声と同時に、診療所の外で患者が倒れた。


 セラフィーナは反射的に立とうとする。


 鏡のイゼベルが笑った。


「ほら。呼ばれれば自分を忘れる。何も変わっていない」


 扉の向こうから医師の声がした。


「こちらで診ます。今日は休診の約束です」


 患者を見捨てたのではない。別の人が救う。


 セラフィーナは椅子へ座り直した。


「以前の私なら、あなたの言う通りでした」


「今は違うと?」


「違う選択を練習しています」


 完治したとは言わない。揺らぎながら選び直している事実を返した。


 鏡面が黒く波打つ。


 白い法衣を着た女が現れた。長い黒髪の半分は白く変色し、瞳には紫の呪詛が渦巻いている。


 法衣は四年前の聖女候補が着ていた旧式だった。袖口は焼け、胸元の聖印は上下が反転している。


 鏡の向こうには地下聖堂の壁が見えた。


 血で引っかいた跡が、今も残っている。


 それでも胸元へ手を添える所作は、聖法院で教えられた祈りそのものだった。


「イゼベル=サンクタ様」


 名前を呼んだ瞬間、女の笑みが僅かに崩れた。


 四年間、王宮は彼女を汚染者、離反者、魔女と呼んだ。


 本名で呼ばれることに、まだ反応する人間の部分が残っている。


「様は要らないわ。聖女ではなくなった女へ、礼儀など必要ないでしょう」


 言葉は穏やかで、セラフィーナとよく似た間を置く。


「あなたの記録を読みました」


「性能表のこと?」


 イゼベルは自嘲する。


「私は甘い果実が好きだった。寒い朝が嫌いだった。弟へ手紙を書いていた。どれも記録にはなかったでしょう」


「林檎の砂糖煮」


 セラフィーナが答えると、イゼベルの瞳が揺れた。


「記録の端に残っていました。弟様への手紙も、公開せず保管しています」


「私を調べたのね」


「性能ではなく、あなたを知るために読みました」


 イゼベルの周囲で黒い花弁が止まる。


 ほんの一瞬、敵ではなく一人の女性として見られた戸惑いが現れた。


 だが次の瞬間、鏡から呪詛が伸び、セラフィーナの喉を締めた。


「今さら名前を拾って、救った顔をしないで」


 理解されること自体が、四年間無視された痛みを刺激した。


 セラフィーナは光で糸を切る。対話を選んでも、攻撃を受け入れる義務はない。


 セラフィーナは答えられない。


 記録にあったのは適性と服従だけだった。


「かわいそうだと思った?」


「許されないことをされたと思いました」


「それでも、彼らの祈りを使うのね」


「これは私の祈りです」


「そう言えるのは、まだ祈ったあとに扉が開くと思っているからよ」


「あなたも同じよ」


 鏡の中へ、王宮の謁見の間が映る。


 次に地下聖堂が映る。


 二十一歳のイゼベルが扉へ手を当て、何度も祈っている。


『民を救いました。命令に従いました。だから、どうか』


 返事はない。


 祈りの言葉が一つ終わるたび、廊下の足音が遠ざかる。


 不要だと告げる王子。目を逸らす貴族。聖杖を奪おうとする役人。


「尽くせる間だけ褒め、壊れたら捨てる。祈りを尊いと言いながら、祈る人間は道具にする」


 否定できない。


「祈りが悪いのではありません。利用した制度が」


「同じことよ」


 イゼベルの指が鏡の内側へ触れる。


「祈りは、弱い者に我慢を教える言葉。救いは、強い者が支配を正当化する言葉」


 鏡面から黒い花弁がこぼれた。


「祈りは欺瞞よ。救いは、力だけが与える」


「力で支配することが、救いなのですか」


「少なくとも、扉を開ける力があれば、私はあそこに残されなかった」


「扉を開ける力は必要でした」


 セラフィーナは否定しなかった。


「ですが、今あなたが王子やリーゼ様の意思を奪っているなら、扉の外にいた者と同じことをしています」


 鏡面が大きく波打った。


「同じですって?」


 初めて、イゼベルの穏やかな声が崩れる。


「苦しみが同じなのではありません。選択を奪う行為が同じです」


「私に説教するの?」


「止めに行く理由を伝えています」


 同情を盾に沈黙しない。怒りを理由に相手の人間性まで消さない。


 セラフィーナは震える手を鏡から離さなかった。


 イゼベルの主張には、消せない事実がある。


 無力であることを美徳にされ、耐えることを祈りと呼ばれた。


 セラフィーナの胸に、謁見の間の怒りが戻る。


 祈りを捧げても、王宮は変わらなかった。


 善意を守ろうとした結果、自分もイゼベルも使い潰された。


 もし力があれば、誰にも奪われなかった。


 昨日、セラフィーナはガウェインの花を受け取った。


 穏やかな日々を信じ始めたばかりだからこそ、それもいつか奪われるのではないかと恐れている。


 奪われる前に力を持ち、誰にも期待しなければ傷つかない。


 イゼベルの答えは、恐ろしいほど理解できた。


 一瞬だけ、同意しかけた。


 診療所の扉が開き、ガウェインの足音がする。


 鏡の中のイゼベルが、扉の方へ視線を向ける。


「今度の騎士は、扉を開けるかしら」


 ガウェインが四年前の近衛騎士だと知っている。


「彼を傷つけるつもりですか」


「傷はもうあるわ。私は見せるだけ」


 イゼベルはその音を聞いて笑った。


「今はまだ、そちらにいなさい」


「何をするつもりですか」


「何もしない。あなたが自分で気づくのを待つだけ」


 鏡像が、セラフィーナと同じ角度で首を傾げる。


「次は、あなたがこちらへ来る」


 鏡が普通の光を戻した。


 ガウェインが入ってくる。


「何かあったのですか」


 セラフィーナは鏡の中の自分を見る。


「もしかしたら」


 声にするのが怖い。


「祈りは本当に、欺瞞なのかもしれません」


 ガウェインはすぐ否定しなかった。


「そう思う理由を、聞かせてください」


 正しい答えで塞がず、揺らぐことも許す。


 その態度さえ、イゼベルの言葉を完全には信じ切れない理由になった。


 割れていないはずの鏡の縁に、細い亀裂が残っていた。


 亀裂の中には紫黒い花弁と、王家の獅子紋が重なっている。


 セラフィーナが触れる前に、獅子の目だけが光った。


 遠くで警鐘が鳴る。


 診療所の外から、騎士の叫びが届いた。


「王家の紋章をつけた部隊です!」


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