第035話 セラフィーナの過去
初めて治癒の光を出したのは、七歳の春だった。
その前のセラフィーナは、木登りが好きで、母に隠れて川へ入るような子どもだった。
泥だらけで帰れば叱られ、弟と菓子を取り合って泣いた。
治癒の光が出た日から、周囲は彼女を「選ばれた子」と呼び始めた。
泥遊びは聖女らしくないと言われ、怒ることも、大声で笑うことも減っていった。
転んだ弟の膝へ手を当てると、傷が消えた。
母はセラフィーナを抱きしめた。
「すごい子。神様に選ばれたのね」
父は町の人々を呼び、もう一度力を見せるよう頼んだ。
父母に悪意はなかった。
貧しい家で、娘の力は家族を救う希望でもあった。聖法院へ入れば教育と食事が与えられ、家族へ援助金も出る。
だからセラフィーナも、寂しいと言えなかった。
光を出せば褒められた。
疲れて出せなければ、皆が困った顔をした。
八歳で聖法院へ入ってからも同じだった。
祈祷を百回成功させれば、教師は優しくなる。熱を出して休めば、「期待しているのに」と言われる。
一度だけ、同室の少女が「今日は祈りたくない」と言った。
翌日、その少女の寝台は空になっていた。
適性不足で故郷へ戻したと説明されたが、それ以来セラフィーナは嫌だと言わなくなった。
少女の名はマリエだった。
後年、セラフィーナは行方を尋ねた。教師は記録にないと答えたが、寝台番号だけはすぐ別の候補へ割り当てられていた。
人が消えても、役割は空白にならない。
その仕組みを見て、自分も止まればすぐ交換されると学んだ。
リーゼを壇上で見た時に怒れなかったのは、同じ寝台へ置かれた少女に見えたからでもある。
「マリエを探したいです」
現在のセラフィーナは初めて、その願いを口にした。
国を救う使命ではない。幼い自分が置き去りにした友人の行方を知りたいという、個人的な望みだった。
ガウェインは理由を問わず、調査員を手配すると約束した。
十二歳のセラフィーナは、倒れる直前まで光を出す方法を覚えた。
呼吸を浅くし、痛む場所を考えず、終わったあとだけ笑う。
教師はそれを「聖女の忍耐」と褒めた。
自分を傷つける技術が、長所として育てられた。
アルフォンス王子との婚約が決まった時、理由は「王家にふさわしい聖性」だった。
彼女の好きなものも、望む暮らしも、誰も尋ねなかった。
婚約の祝宴でアルフォンスだけは、「嫌ではないか」と尋ねた。
セラフィーナは反射的に「光栄です」と答えた。
彼も、それ以上は聞かなかった。
好意はあった。けれど互いに、役割の外へ踏み出すことはなかった。
現在。
セラフィーナは花の置かれた客室で、ガウェインとオズワルドへ過去を話した。
「何もしなくてよい朝が、怖いのです」
窓の外では、使用人たちが笑いながら洗濯物を干している。
「誰にも求められないと、私はここにいてはいけない気がします」
その日の朝、診療所から休診を勧める札が届いていた。
昨日の治療疲労が残っていると、医師が判断したためだ。
セラフィーナは札を破りたい衝動に駆られた。休めば、明日の患者が別の治癒術師を頼る。自分でなくても治ると証明されてしまう。
恐れているのは患者の悪化だけではない。
自分が不要でも仕組みが回ることだった。
「皆が私なしで助かることを、喜べない自分がいます」
口にすると、醜い告白に思えた。
オズワルドは頷く。
「必要とされることで生存を許されてきたなら、不要は死刑宣告に聞こえる。まずはそう感じる自分を罰するな」
ガウェインも目を逸らさない。
「あなたが不要なのではありません。一人へ依存しない仕組みに変える。その上で、あなたがいることを私は望みます」
役割がなくても望むという言葉を、セラフィーナはすぐ信じられなかった。
それでも否定せず、今日一日だけ休むことを選んだ。
「昨日、花を受け取った時も?」
ガウェインが慎重に尋ねる。
「うれしかったです。だからこそ怖くなりました。何も返していないのに、受け取ってよいのかと」
「返礼は求めていません」
「それが、まだ分からないのです」
分からないと言えることも、以前にはなかった変化だった。
ガウェインが何か言おうとした。
セラフィーナは首を振る。
慰めを先に受け取れば、また自分の言葉を飲み込んでしまう。
「私は、与え続けなければ愛されないと信じていました」
初めて、嘘を言葉にした。
「婚約を破棄されて悲しかったのは、王子を失ったからだけではありません。役に立たない私には、何も残らないと思ったからです」
ガウェインは否定しない。
「違う。あなたには価値がある」と急いで言えば、また彼の答えを受け取るだけになる。
彼は拳を握り、慰めたい衝動を抑えて聞いていた。
ただ椅子へ座り、続きを待っている。
「そして今も、王宮へ怒る自分が怖い。怒れば、聖女ではなくなる気がします」
オズワルドが窓辺で眼鏡を直した。
「怒りは悪ではない」
「けれど、誰かを傷つけます」
「火と同じじゃ。扱い方を誤れば家を焼く。じゃが、火がなければ寒い夜を越せん」
「怒りを向ける相手を、間違えたら?」
「間違えたと気づいた時に止め、謝り、選び直す。そのために仲間がおる」
オズワルドはガウェインを見る。
「何でも一人で正しく扱おうとするから、自分を燃料にするのじゃ」
老人は暖炉の小さな炎を指す。
「怒りは、自分が傷つけられたと知らせる灯りでもある。それを消して笑うことだけが聖女らしさなら、そんな聖女はやめてしまえ」
セラフィーナは胸元へ手を当てた。
謁見の間で生まれた熱は、まだ消えていない。
消すのではなく、照らす方向を選べるのかもしれない。
「怒っても、祈ってよいのでしょうか」
「おぬしが決めることじゃ」
セラフィーナは暖炉へ手をかざした。
火は温かい。
近づきすぎれば痛い。離れすぎれば届かない。
怒りも祈りも、持つことではなく、どう扱うかを選べるのかもしれない。
オズワルドは炎へ薪を一本足した。
「怒りは火じゃ。家を焼くこともあれば、夜を越す灯りにもなる」
暖炉の上の鏡に、三人の姿が映っていた。
セラフィーナは、自分の顔にまだ怒りが残っていることを確かめた。それでも、隣にいる二人は離れない。
怒りを見せれば愛されないという嘘が、ほんの少しだけ揺らいだ。
セラフィーナは休診札の裏へ、自分で一行書いた。
《本日は休みます。明日、戻ります》
役に立たない日ではない。明日へ戻るための日だと、自分の言葉で決めた。
その時、鏡の奥で炎だけが一拍遅れて揺れた。




