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第033話 イゼベルの影

 記録上、イゼベル=サンクタは四年前に病死していた。


 オズワルドが封印庫から持ち出した文書には、死亡日時と聖法院の印がある。


 だが添付された診療記録は、途中から切り取られていた。


 残された頁には、イゼベルの健康状態が几帳面に記されている。


 浄化適性、歴代最高。祈祷持続時間、基準の二倍。命令への服従、良好。


 好きなものも、家族の名も、本人の希望もない。


 人間の記録ではなく、性能表だった。


 頁の端にだけ、別の筆跡が残っていた。


 祈祷後、林檎の砂糖煮を希望。弟へ手紙を書く時間を求む。


 どちらにも赤線が引かれ、「任務に不要」と追記されている。


 セラフィーナの記録にも、同じ赤線があった。休息希望、家族面会、治療人数の上限。本人に関わる願いほど、聖女の性能を下げる雑音として消された。


「この一行を書いたのは、誰でしょう」


「下働きの修道女じゃ。事故のあと、地方へ転任させられた」


 小さな願いを記録しただけで、王宮にとっては不都合だった。


「病死した者の記録を、なぜ封印する必要があるのでしょう」


 セラフィーナが問う。


「病ではないからじゃ」


 オズワルドは別の帳簿を開いた。


 同じ死亡日時の翌月にも、地下聖堂へ食料と呪詛抑制剤が運ばれている。


 公には死んだことにし、実際には誰にも会わせず閉じ込めていた。


 別の紙には、王都大結界事故の報告が残っていた。


 四年前、結界の一部が魔王軍の呪詛で汚染された。聖法院は当時二十一歳の聖女候補イゼベルへ、限界を超える浄化を命じた。


 予測必要魔力量は、彼女の保有量の三倍。


 代替案の欄には、結界区画を一時放棄し住民を避難させる案があった。


 時間と費用はかかるが、生存率は高い。


 その案には宰相オルドールの筆跡で「王都の威信を損なう」と却下印が押されている。


 イゼベルの命は、民の命と比較されただけではない。


 王宮の体面より軽いと判断された。


 術者の生存率、十二パーセント。


「これを承認したのですか」


 セラフィーナの声が低くなる。


「結界内には二万人いた。聖法院は、一人を切り捨てれば民を救えると判断した」


「本人には危険を?」


 オズワルドは首を振った。


 命令書には「軽度の疲労が予想される」とだけ書かれている。


 イゼベルは死ぬ可能性を知らず、聖女として当然の務めだと信じて術式へ入った。


 セラフィーナの指が紙の端を強く掴む。


「それを同意とは呼べません」


 浄化は成功した。


 その代わり、イゼベルの身体へ呪詛が入り、聖性が反転した。


 聖法院は治療せず、「聖女失格」「自発的離反」と記録を書き換え、地下聖堂へ隔離した。


 隔離後の物資台帳では、食事が一日三回から二回へ減り、最後の七日間は水と抑制剤しか運ばれていない。治療のためではなく、力を失わせるための投薬だった。


 その一方で、呪詛反転の測定紙だけは毎日交換されている。


 王宮は彼女を救おうとしなかった。


 壊れていく過程を、兵器の研究として観察していた。


 研究報告の末尾には、現在の宰相オルドールの署名があった。


 《反転聖性は王族への服従誘導に転用可能。被験体の人格維持は不要》


 事故を起こし、閉じ込め、壊れる過程を記録しただけではない。


 今アルフォンスへ使われている呪詛の基礎を、王宮自身がイゼベルから作っていた。


 被害者が復讐者になった陰で、最初に彼女を兵器へ変えた者たちは、今も制度の席に座っている。


「イゼベル様だけを倒しても、終わりません」


 セラフィーナは報告書の署名を写した。


「この研究を命じ、利用した者の責任まで明らかにします」


 汚染されたイゼベルが助けを求める音声記録もあった。


『まだ祈れます。だから、ここから出してください』


 音声はそこで終わらなかった。


『祈れなくなったら、私はどうなりますか』


 返事をした男の声が残っている。


『その時は、別の聖女を用意する』


 声紋記録には、当時聖法院の監査官だったドーリアンの名があった。現在の大聖典官である。


 イゼベルを見捨てたことで地位を失うどころか、研究成果を持って昇進していた。


 セラフィーナは再生石を止めた。


「この記録を複製してください。王宮だけへ渡せば消されます」


 オズワルドは北境、セルディア、ヴェルナ連合へ一通ずつ送る封筒を用意した。


 一人の権力者が閉じても、別の場所で開けられる記録にする。


 役に立てると証明すれば、また人として扱われると思っていた。


 四年前の彼女と、追放直後のセラフィーナは同じ嘘を信じていた。


 セラフィーナは自分の魔力脈にある黒い傷を思う。


 あと少し王宮に残っていれば、自分も同じ記録の一行になったかもしれない。


「あなたは、治療法を知っていたのですか」


「可能性だけはな。古代術式なら呪詛と聖性を分離できる。証拠と許可を集めておる間に、地下聖堂は空になった」


「助けに行かなかったのですか」


 問いは責める響きになった。


 オズワルドは逃げなかった。


「行かなかった。正しく手続きを踏めば救えると思った。わしは、見捨てた側にいた」


「許可がなければ救ってはいけないと?」


「あの時のわしは、知識と手続きが人を守ると思っとった。扉を破れば治療の機会ごと失うと恐れた」


「結果は」


「何もせず失った」


 オズワルドは自分を弁護しなかった。


 それでもセラフィーナの怒りは消えない。


 怒ったまま、彼の後悔も事実として受け取る。


 知識がありながら遅れた者の後悔。


 オズワルドの罪を知っても、イゼベルの苦しみが軽くなるわけではない。けれど、罪を隠さず差し出す人間と、記録を書き換えて責任を消す制度は同じではなかった。


 その違いを見落とせば、怒りは向ける先を失う。


 セラフィーナは簡単に許すことも、責め続けることもできなかった。


「イゼベルは今も生きているのですね」


「イゼベル様が苦しんだことは事実です。だからといって、今苦しめられている民やリーゼ様まで差し出すことはできません」


 同情することと、被害を止めることを両立させる。


 王宮が作った『聖女か魔女か』という二択へ、もう従わない。


「王子の文書に残った呪詛が、そう告げておる」


 部屋の扉が開いた。


 ガウェインが立っている。


 いつから聞いていたのか、顔色が悪い。


「オズワルドだけではない」


 彼はセラフィーナの前へ進み、剣を外して床へ置いた。


「私も、あの事件を止められなかった」


 ガウェインの手には、古い王命書が握られている。


 紙の端は何度も開かれ、擦り切れていた。


 忘れないために持ち続けてきた罪だった。


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