第032話 辺境伯領の日々
目を覚ましても、枕元に予定表がなかった。
祈祷の鐘も、治療院からの呼び出しも、結界維持の担当表もない。
窓から北境の朝日が差し、鳥が鳴いている。
セラフィーナは一刻ほど寝台で耐えた。
時計の針が進む音を数え、三度寝返りを打ち、四度目には起き上がった。
休むことが治療だと説明された。それでも身体の奥では、何も生み出さない時間を罪だと感じる。
王宮では、起床の鐘より遅く寝台にいれば、怠惰と記録された。
耐えきれず、城内へ仕事を探しに出た。
「洗濯物でしたら、私が」
侍女へ声をかけると、笑って断られた。
「お客様へ洗濯をさせたら、辺境伯様に私が叱られます」
「では、薬草の整理を」
「昨日、薬師が終えました」
厨房へ行けば朝食を渡され、書庫へ行けば椅子を勧められる。
食堂では、配給表を前に料理長が頭を抱えていた。
王都からの小麦が届かず、三日後には兵舎のパンが足りなくなる。
セラフィーナは治癒の光を使わず、表を見た。
聖法院で疫病区の食料配分も任されていたため、数字の偏りに気づく。城下の豆と北倉庫の芋を交換すれば、量を減らさず一週間持たせられる。
「こちらの保存豆は、診療所の患者食へ回せます。代わりに芋を兵舎へ」
料理長は計算し直し、顔を上げた。
「聖女の力ではなくても、助かりました」
何気ない言葉だった。
光を出さなくても、自分の経験が誰かの役に立つ。
役に立たなければ価値がないという傷は、まだ消えない。それでも価値を証明する方法が治癒だけではないと知れた。
庭では騎士たちが訓練していた。
傷を探して近づくと、全員が反射的に姿勢を正す。
「治療が必要な方は?」
若い騎士が擦り傷を隠した。
「この程度でお手を煩わせたら、辺境伯様に叱られます」
治せと命じる領主ではなく、無理に頼むなと命じる領主らしい。
戸惑いながら、セラフィーナは傷薬の場所だけ教えた。
何もしなくてよいと言われるたび、不安が増した。
客人という言葉も落ち着かなかった。
客人なら、いつか帰る。役割がなければ、滞在を許される期限も分からない。
自分から何かを選ばなければ、また誰かの決定を待つだけになる。
昼前、城下の診療所を訪ねた。
「治療をさせてください。ただし、一日に三人まで」
「報酬はどういたしましょう」
医師に聞かれ、セラフィーナは止まった。
聖女の治癒へ個人の報酬を受け取ったことがない。すべて王宮の奉仕として扱われた。
「診療所の通常料金と同じにしてください。払えない方は、薬草の整理を手伝っていただければ」
慈善ではなく、相手の尊厳も守る仕組みを自分で考えた。
オズワルドの制限を、自分から条件にした。
診療所の医師は聖女としてではなく、一人の治癒術師として迎えた。
診療台の横には、担当者名を書く札があった。
セラフィーナが名を書くと、医師はその下へ資格ではなく勤務時間を記した。
午前のみ。三名まで。緊急時は本人へ相談。
王宮の勤務表には終了時刻がなかった。
ここでは、働き始める前から終わる時間が決まっている。
「時間を過ぎたら、患者がいても帰ってください」
「本当に?」
「次の担当が引き継ぎます。あなたがいない日にも開く診療所ですから」
その言葉は寂しく、同時に温かかった。
自分が休んでも扉が閉じない場所なら、安心して戻ってこられる。
一人目は騎士の古傷。二人目は鉱夫の火傷。三人目は転んだ少女の膝。
四人目に並んでいた老人へ、今日は治せないと伝えるのが怖かった。
「明日の最初に診ます」
老人は怒らず、「約束だな」と笑った。
断っても、価値を失わない。
明日また会う約束が残る。
少女は治癒が終わると、花を一本くれた。
城へ戻る途中、ガウェインが待っていた。
手には、同じ種類の野花が大量にある。
「これは」
「必要な物資です」
「花が?」
ガウェインは黙った。
後ろから来たオズワルドが、呆れた声を出す。
「若いのう。花の一つでも贈ればよかろうに」
「贈ろうとしている」
「なら物資と言うな」
「花瓶も手配した」
ガウェインの後ろには、花瓶を三つ抱えた従者がいた。
花束一つへ対して明らかに多い。
「どれが好みか分からなかった」
「全部買ったのか。商人は喜んだじゃろうな」
「領内経済への貢献でもある」
「言い訳が領主規模じゃ」
「そういうところじゃ」
セラフィーナは二人を見比べた。
王宮では贈り物にも意味があった。宝石なら忠誠、衣装なら公務、花なら式典の装飾。
この不器用な花束には、見返りも役割も見つからない。
「私に、ですか」
ガウェインは背筋を正した。
「あなたの部屋が、あまりに何もなかったので」
「ありがとうございます」
受け取ると、花束の半分が床へ落ちた。量が多すぎる。
オズワルドが笑い、ガウェインが慌てて拾う。
「一輪だけ、部屋に飾ります」
ガウェインの手が止まった。
「残りは、お嫌いでしたか」
「いいえ。診療所と食堂へ分けてもよろしいですか。皆で見た方が、長く楽しめます」
贈られた物をどう扱うかまで、相手の期待に合わせなくてよい。欲しい分を選び、残りを別の喜びへ変えてよい。
ガウェインは少し考え、頷いた。
「あなたへ贈った物です。受け取ったあとは、あなたが決めてください」
翌朝、食堂へ分けた花の横に、小さな札が置かれていた。
《セラフィーナ殿より》
彼女は外そうとした。自分の名が功績として飾られることに、まだ警戒がある。
料理長が言った。
「宣伝ではありません。誰が分けてくれたか、礼を言いたいだけです。嫌なら外します」
セラフィーナは考え、札を残した。
名を利用されることと、自分が選んだ行為へ名を添えることは違う。
その答えに、胸の緊張が一つほどけた。
「では明日も、診療所へ行きます。一日三人まで。午後は休みます」
「午前に食料会議へも出ていただけますか」
ガウェインが尋ねた。
セラフィーナの身体が一瞬強張る。
また仕事を増やされる、と古い恐怖が反応した。
ガウェインはすぐ続ける。
「断っても構いません。今日の提案が有用だったので、助言者として報酬を払いたい」
「治癒とは別の仕事として?」
「はい。月に二度。一刻まで」
条件が見える。断る余地がある。働いた分の対価もある。
「その条件なら、お受けします」
自分を消耗品にする仕事ではなく、自分で選んだ仕事が一つ増えた。
「護衛を」
「一人だけお願いします」
「三人では」
「一人です」
「……承知しました」
互いに譲る場所と譲らない場所を、言葉で確かめられる。
セラフィーナの口元からも、自然に笑いがこぼれた。
誰かを安心させるためでも、聖女らしく振る舞うためでもない。
笑った瞬間、胸に罪悪感が浮かんだ。
王都では人々が苦しんでいる。イゼベルは呪いの中にいる。自分だけ穏やかな朝を過ごしてよいのか。
けれど少女からもらった一本の花が、答えるように揺れた。
幸せでいることは、苦しむ人への裏切りではない。
自分自身の笑いだった。
ガウェインは花を拾う手を止め、何も言えなくなった。




