第031話 王都の腐敗
「同じ人間の署名ではないな」
オズワルドは、王都から届いた二通の公文書を窓へ透かした。
一通は三か月前、北境への物資支援を認めたもの。もう一通は今朝届いた、セラフィーナの治療行為を禁じる命令書。
どちらにもアルフォンス王子の署名がある。
新しい命令書には、辺境伯領でセラフィーナを治療へ参加させた場合、反逆の意思ありと見なす一文まであった。
民を救う行為を、王家への反逆へすり替えている。
ガウェインは命令書を読み終え、封筒へ戻さず机へ置いた。
「従うつもりはない」
「即答か。少しは領主らしく悩め」
「民の治療を禁じる命令に、悩む余地はない」
机には命令書以外にも、王都からの報告が積まれていた。
北門結界、三度停止。治癒院の入院待ち、二百十一人。疫病区への薬荷、聖法院の再承認待ちで七日停滞。
セラフィーナを追放して十日も経っていない。
王宮は新しい聖女の威光を宣伝する一方、セラフィーナが一人で担っていた仕事の一覧すら作れていなかった。
さらに北境へ、王都の患者を受け入れろという無署名の要請が届いている。治療を禁じながら、結果だけは辺境へ押しつけようとしていた。
ガウェインは二通を並べた。
「治療するな。だが患者は引き取れ。同じ日に出す命令か」
セラフィーナは怒りより先に、患者の人数を数えた。
以前なら、そのまま自分が全員を治す予定を立てただろう。
今は北境の医師数、薬、寝台を確認し、受け入れ可能数を計算する。
「重症者は受け入れます。ただし私一人を前提にしない治療班を組んでください」
王都の無責任へ従うのではない。見捨てられた患者を、別の仕組みで救う選択だった。
オズワルドは口元だけ笑い、探知術の準備を続けた。
だが古い署名は筆圧が弱く、最後の線だけ迷うように曲がっていた。新しい署名は異様に深く、紙の裏まで黒い魔力が染みている。
セラフィーナは古い署名を覚えていた。
アルフォンスは長い名へ慣れず、幼い頃から最後の一画をよく間違えた。婚約誓約書でも同じ場所を二度なぞり、二人で笑った。
新しい署名には、その人間らしい迷いがない。
正確すぎて、別人のようだった。
「筆跡は一致しています」
セラフィーナが言う。
「手は同じじゃ。動かした意思が違う」
オズワルドが探知術を流すと、文字の隙間から紫黒い煙が立った。
甘く、頭の奥を痺れさせる匂い。
謁見の間で感じたものと同じだった。
煙は王子の署名だけでなく、聖法院の印へも細く繋がっている。
誰かが王子一人を操ったのではない。命令を承認し、流通させる制度そのものへ呪詛が入り込んでいる。
「王子は操られていたのでしょうか」
胸の中に、安堵に似たものが生まれる。
その感情に気づき、セラフィーナは自分を恥じた。
操られていたと聞けば、傷つけられた事実を小さくできる。昔の優しかった王子だけを残し、怒りを手放せる。
けれど、それは自分が楽になるための解釈かもしれない。
操られていたのなら、婚約破棄も、不要という言葉も、本心ではなかったことになる。
オズワルドは煙を小瓶へ封じた。
「操られておる。じゃが、完全な人形ではない」
「どういう意味ですか」
「呪詛は、本人にない欲望を一から作るのは苦手じゃ。元からある甘えや恐れへ、都合のよい理由を与える」
「本人が拒めば、命令できなかったのですか」
「初期ならな。深く侵されれば難しい。じゃが深くなる前に、何度も小さな選択があったはずじゃ」
楽な報告だけを聞く。異論を遠ざける。自分を正しいと褒める者を近くに置く。
呪詛は、その選択の隙間から根を張った。
アルフォンスは民を思う王子だった。
けれどセラフィーナの治癒を当然と考え、結界の負担を知ろうとせず、面倒な報告を後回しにした。
そこへ「新しい聖女なら、もっと楽に国を救える」と囁かれたのだろう。
「では、被害者であると同時に、責任もあるのですね」
セラフィーナは別紙を取り出した。
婚約中、アルフォンスへ提出した負担軽減案の控えだった。結界担当を三人へ分け、治癒院へ副責任者を置く案。王子は「君ならできる」と笑い、すべて保留にしている。
呪詛が深くなる二年前から、彼はセラフィーナの限界を知る機会を何度も捨てた。
「操られる前から、殿下は私の働きを便利なものとして受け取っていました」
その事実を口にすると、昔の優しさまで否定するようで胸が痛んだ。
それでも、被害者という一語で消してはいけない選択だった。
「その通りじゃ。洗脳は罪を軽くする事情にはなる。罪そのものを消す消しゴムではない」
ガウェインが静かに言う。
「王子を救うことと、王子の責任を問うことは両立する」
セラフィーナは頷いた。
それは、王都を助けても王宮へ戻る必要はないという言葉にも繋がっていた。
ガウェインが命令書を睨む。
「王宮は、この術式に気づいていないのか」
「気づいて利用しておる者がおる」
署名の下には聖法院の承認印と、宰相オルドールの副印があった。
王子が操られていても、命令を制度として通した者たちは正気だ。
宰相オルドールは、呪詛が混じる命令を見抜ける魔力検査官を遠ざけていた。
大聖典官ドーリアンは、聖女交代で権限が増える契約へ署名している。
操られた王子を、都合のよい印章として利用した者がいる。
「この呪詛は、四年前の事故と同じ系統ですか」
セラフィーナが問う。
オズワルドは眼鏡を直した。
「同じじゃ。王子へ取り憑いているのは、かつて聖女だった女かもしれん」
「かつて、聖女だった……?」
自分と同じ祈りを知る誰かが、その祈りを呪いへ変えた。
セラフィーナは命令書へ残る煙から目を逸らさなかった。
「その方のことを、教えてください」
「知れば、同情して戦えなくなるかもしれんぞ」
「知らずに悪と決める方が、王宮と同じです」
セラフィーナは公文書を閉じた。
「私は、何をされたかを知った上で、何を許さないか選びます」
オズワルドはしばらく彼女を見てから、封印庫の鍵を取り出した。
鍵には、古びた札が結ばれていた。
第四封印庫。聖女候補イゼベル=サンクタ関連記録。王命なく開封を禁ず。
ガウェインの目が、その名で止まる。
「知っているのですか」
セラフィーナが問うと、彼はすぐには答えなかった。
鍵を握るオズワルドの手にも、わずかな震えがある。
二人とも、ただ記録を知っている顔ではなかった。
「封印庫で、全て話す」
ガウェインはそう言ったが、その声には四年分の後悔が沈んでいた。




