第030話 オズワルドという灯り
「壊れるまで使われたな」
老人は挨拶より先に、セラフィーナの手首を掴んだ。
「失礼です」
ガウェインが止める。
「失礼で結構。手遅れよりはましじゃ」
白髪乱れ髪、ずれた丸眼鏡、何度も継ぎを当てたローブ。
オズワルド=グレイ。王都の魔法学院を追い出されたとも、自分から出たとも言われる老賢者だった。
診察室は書物と薬瓶で埋まり、寝台の上にまで巻物が積まれている。
オズワルドは杖で巻物を床へ落とし、そこへ寝ろと指した。
「患者を紙より下へ置くのですか」
「紙は文句を言わんからの」
セラフィーナは呆れながらも横になった。
王宮の診察では、検査結果を本人より先に聖法院へ報告された。ここではオズワルドが、見えるものをすべて彼女本人へ見せている。
彼はセラフィーナの返事を待たず、手首へ細い光を流す。
魔力脈が透けて見えた。
本来なら滑らかに巡る金色の光へ、無数の黒い傷が走っている。
「三か月は大規模治癒禁止。結界術も駄目。毎日八時間寝ること」
「軽い治癒なら」
「一日三人。骨折以上は一人。翌日に疲労が残れば休み」
「細かいのですね」
「若い者は隙があると働くからな」
オズワルドは制限を書いた紙を、セラフィーナ自身へ渡した。
誰かへ管理を委ねるのではなく、自分で身体を守るための基準として。
「三か月も働けないのですか」
「働く話をしておらん。治す話をしとる」
オズワルドは三枚の札を机へ置いた。
緑は安全。黄は翌日休む。赤は即時中止。
脈拍、指先の冷え、視界の霞み、魔力脈の痛み。本人が感覚を無視しても、周囲が止められる基準が書かれている。
「監視されるのですか」
「違う。おぬしが自分を守るため、他人へ助けを求める合図じゃ」
セラフィーナは赤札を見た。
王宮では、赤い札は能力不足の記録だった。ここでは生き残るための道具になる。
「私が続けたいと言っても?」
「止める。ただし治療を奪うためではない。休んだ後、いつ再開できるかも一緒に決める」
禁止だけでは、また他人に身体を所有される。
休止と再開を一つの計画にすることで、治療は罰ではなく選び直せる仕事になった。
セラフィーナは三枚を自分の鞄へ入れた。
セラフィーナは手を引いた。
「北境には負傷者がいるはずです。私が休んでいる間に、救えない方が出ます」
「おぬし一人が壊れれば、その先で救えた百人が死ぬ」
「百人のために、今の一人を見捨てるのですか」
「違う。今の一人を救う方法を、おぬし一人しか持たん状態が間違いじゃ」
オズワルドは北境の治癒術師一覧を見せた。
すでに訓練計画と薬の備蓄表が作られている。
「聖女は必要じゃ。じゃが聖女一人だけが必要な国は、国の方が病んどる」
「それでも、今苦しんでいる方を」
オズワルドの軽い表情が消えた。
「自分を燃やすことを祈りと呼ぶな」
「私は、そうしなければ役に立てません」
声が思わず強くなる。
オズワルドは怒らず、椅子を引いて正面へ座った。
「役に立たぬ日は、生きていてはいかんのか」
答えが出ない。
「なら今日は、その問いだけ持って寝なさい」
部屋が静かになる。
セラフィーナは胸元へ手を当てた。
治せない自分。結界を張れない自分。聖女位もなく、役に立つ力まで使えない自分。
何のためにここにいるのか分からない。
「王宮は、この傷を知っていたのでしょうか」
質問する前から、答えを恐れていた。
知らなかったのなら怠慢。知っていたのなら故意。
どちらでも、尽くした相手が自分を守るつもりはなかったことになる。
「知っとった。定期検査の記録に残っとる。じゃが魔力を止めれば結界維持に金がかかる。おぬしへ借金を押しつけた方が安かった」
「借金?」
「王宮がおぬしの身体から前借りした力じゃ。返す気もなくな」
「では、この傷は私の弱さではないのですか」
「無理を強いた側の責任じゃ。もちろん休まなかったおぬしにも、自分を守る練習は必要だがの」
すべてを王宮のせいにせず、すべてをセラフィーナのせいにもしない。
責任を切り分ける言葉だった。
ガウェインの手が大剣の柄へかかる。
「今すぐ王都へ抗議文を送る」
「若いのう。抗議文で魔力脈が治るなら、羊皮紙を煎じて飲ませるわい」
「抗議は必要だ」
「必要じゃ。じゃが今のおぬしは、怒りを仕事にして本人の前から逃げようとした」
ガウェインが黙る。
セラフィーナの治療をめぐって、王宮と同じように本人を置き去りにしかけたことへ気づいた。
「黙認はできん」
「黙れとは言っとらん。まず本人を寝かせろと言っとる」
二人が睨み合う。
「あの」
セラフィーナが口を挟む。
「私のいないところで、私の治療方針を決めないでください」
ガウェインがすぐ柄から手を離した。
「……申し訳ない」
「謝罪は受け取ります。治療方針は、三人で決めさせてください」
「承知した」
「もう一つ。診断記録は私にも一部ください。王宮のように、本人へ隠さないでください」
オズワルドは原本を机の中央へ置いた。
「写しではなく、まず原本を読め。分からぬ言葉は全部聞け」
セラフィーナは自分の傷を、自分の情報として初めて受け取った。
ガウェインは即座に席を用意し、オズワルドは診断図を彼女から見える向きへ直した。
小さなやり取りだが、セラフィーナが自分の身体の決定へ加わった最初の瞬間だった。
オズワルドはにやりと笑う。
「よい。言えるではないか」
診察台へ戻り、オズワルドは魔力脈の一箇所を拡大した。
黒い傷の中に、花弁のような術式がある。
「これは王宮の通常術式ではない。四年前の大結界事故で見たものと同じじゃ」
「四年前……」
「一人の聖女候補が、限界を超えた浄化を命じられた。呪詛を浴び、王宮に切り捨てられた」
術式痕の一部は、セラフィーナの傷より深く、反転している。
同じ負荷を受け続ければ、自分も治癒ではなく呪詛を生む側へ変わっていた可能性がある。
追放は彼女を傷つけた。
同時に、壊れ切る前に王宮から切り離したのかもしれない。
オズワルドは眼鏡を直した。
「わしは治す方法へ気づくのが遅かった。証拠を集めている間に、あの子は消えた」
窓の外には、北境の静かな灯りが並んでいる。
老人の横顔から、いつもの軽さが消えていた。
「わしは、あの子を救えなかった」
セラフィーナは診察台から身を起こす。
「あの子とは、誰ですか」
オズワルドは答えず、窓の外を見た。
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