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第029話 北境への道

王都の外門を出て半日も経たないうちに、街道の治癒所は人で溢れていた。


荷馬車の事故で脚を折った男。魔物に噛まれた旅人。熱を出した子ども。


王都から派遣されるはずの治癒術師が来ず、列は街道まで伸びている。


治癒所の扉には、王宮から届いた休業命令が貼られていた。


聖女交代に伴い、治癒術式を再登録するまで上位治療を禁ずる。


制度を守るために、目の前の負傷者を待たせている。


セラフィーナは紙を読み、王宮への怒りを飲み込んだ。


セラフィーナは馬車を止めた。


「診てまいります」


ガウェインは止めなかった。


「追放令には治療禁止とあります」


同行する騎士が心配そうに言う。


ガウェインは命令書を見た。


「ここは王都の管轄外だ。治癒所の責任者と、本人が望むなら妨げない」


セラフィーナへ決定を返す。


「私は治療します」


治癒所の責任者は、すぐには頷かなかった。


「あなたを受け入れれば、王宮から資格を剥奪されます」


目の前に患者がいても、彼にも家族と職員の生活がある。


セラフィーナは正しさで押し切らなかった。


「私の名を記録から外してください。治療の責任は私個人が負います」


「それでは、またあなた一人へ責任が集まる」


ガウェインが口を挟む。


辺境伯家が臨時治療所として場所を借り、医師は患者の状態確認だけを担当する契約をその場で作った。王宮から処分を受ければ、北境での雇用と家族の移住を保障する。


善意を求めるだけでは、協力する者へ危険を押しつける。


責任者は契約を読み、ようやく扉を開いた。


「二人までです。その後は私たちが引き継ぎます」


「お願いします」


救う仕組みは、関わる者が負う代価まで支えて初めて続けられる。


「分かりました。では二人診たら、水を飲んでください」


「まだ大勢います」


「全員を一度に救おうとすれば、あなたが倒れます」


「では、誰を諦めろと?」


「諦めるのではありません。あなたにしかできない治療を優先し、他は医師と薬師へ繋ぐ」


ガウェインは患者を重症度で分け始めた。


聖女一人へすべてを背負わせるのではなく、救う仕組みを作ろうとしている。


「慣れています」


「慣れてよいことではない」


硬い声だったが、命令ではない。ガウェインは水筒と椅子を治療所の脇へ運び、患者の順番を整理し始めた。


セラフィーナが治癒を選ぶことは止めず、選び続けられるよう身体を守ろうとしている。


最初の男の骨を整え、旅人の傷を浄化する。


三人目へ手を伸ばすと、指先が震えた。


ガウェインが水筒を差し出す。


「二人です」


「数えていらしたのですね」


「約束です」


約束した覚えはない、と言いかける。けれど自分が休むことを、誰かが当然の予定として扱うのは初めてだった。


椅子へ座ると、待っていた患者たちから不満が出ると思った。


だが骨を治した男が先頭に立ち、「聖女様が休むまで俺たちも待つ」と言った。


必要とされることと、使い潰されることは同じではない。


その違いを、見知らぬ患者たちから教えられる。


水を飲み、呼吸を整える。


休んだあとなら、もう二人を安全に治せた。


治療所を出る時、行商人が王都の噂を教えた。


「北門の結界が昨日から揺れてるそうです。治癒院も新しい聖女様の引き継ぎが済まず、大混乱で」


「王宮は、聖女様が力を持ち逃げしたと言ってる」


別の旅人が加わる。


「結界が弱ったのも、追放を恨んで術を止めたせいだって」


セラフィーナの指が冷たくなる。


力を奪い、追放し、その結果まで本人の罪にする。


噂はローグが見抜いた通り、街道へ計画的に撒かれていた。


セラフィーナの胸が締まる。


そこへ王都方面から早馬が来た。


乗っていたのは、追放の日に記録を残した若い書記官だった。馬から降りると、封蝋のない写しを差し出す。


「公式命令ではありません。ですが、謁見の間の記録が改ざんされる前に写しました」


紙には、セラフィーナが支出記録の公開を求めた発言と、王子が調査を拒んだ事実が残っている。


「なぜ、危険を冒してまで」


「あの場で何も言えませんでした。せめて、書いたことまで消す側にはなりたくなかった」


書記官は謝罪を求めず、写しだけを置いた。


セラフィーナは受け取った。


王都の全員が敵になったわけではない。だが正しい記録を残すだけで危険を負う国になっている。


戻って従うのではなく、外から事実を守る理由が一つ増えた。


大結界の魔力供給は、急に使い手を変えられない。少なくとも二週間は波形を合わせる必要がある。それを説明する機会すら奪われた。


「戻らなければ」


口から出た。


ガウェインは馬車の扉へ手をかけたまま、彼女を見る。


「戻りたいですか」


「私がいなければ、民が」


「民を心配することと、あなたを捨てた王宮へ戻ることは別です」


「ですが」


「王都には引き継ぎを求める文書を送ります。必要なら術式記録だけを届ける。あなた自身を差し出す必要はない」


「記録を渡せば、新しい聖女候補が傷つくかもしれません」


リーゼの空虚な笑顔が浮かぶ。


「では負担を下げた仮設術式も添える。彼女を王宮の都合で使い潰させない形を選びましょう」


ガウェインは、セラフィーナを助けるために別の女性を犠牲にしようとしない。


セラフィーナは黙った。


自分を捨てた場所を心配する自分が、情けなく、腹立たしい。


「まだ王都を案じる自分が嫌です」


「善性は、命令を出した者の所有物ではありません」


「心配をやめられなくても、戻らなくてよいのですか」


「はい。許すこと、助けること、従うことは別です」


セラフィーナはその三つを、胸の中で繰り返した。


ガウェインは馬車へ乗るよう急かさず、答えが出るまで待った。


セラフィーナは自分から扉を開ける。


「文書をお願いします。私は、北境へ行きます」


セラフィーナは仮設術式の説明書を自分で書いた。


王宮の専門用語ではなく、新しい聖女候補本人が読める短い手順にする。最大出力ではなく、安全な上限と中止条件を最初の頁へ置いた。


最後に、リーゼ宛ての一文を添える。


《できない時は、あなたの責任ではありません。止めてください》


かつて自分が誰にも渡されなかった言葉だった。


数日後、アルデイン北境ノルヘイムの石造りの門が見えた。


道中、ガウェインは毎晩、宿の安全を確認したあと自分の部屋を最も離れた位置に取った。


守る名目で近くへ居座らない。


食事も、必要量を尋ねてから用意する。


小さな選択を返され続け、セラフィーナはようやく馬車の中で眠れるようになっていた。


騎士たちが整列している。歓迎の旗も、聖女を讃える垂れ幕もない。


代わりに、白髪を好き放題に伸ばした老人が門の中央で杖をついていた。


老人の後ろには「歓迎 元聖女殿」と書きかけて、元の字だけ乱暴に消した板がある。


称号ではなく本人を迎えろ、と誰かが直したらしい。


「遅いぞ、若いの」


老人はガウェインを無視し、セラフィーナの顔色を見た。


「王都はもう腐り始めとる」


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