第027話 追放令
婚約破棄だけではなかった。
謁見の間を出たセラフィーナを、小礼拝室で聖法院の役人が待っていた。
机には三通の文書が並ぶ。
紙はすべて、今夜の日付より前に作成されていた。
婚約破棄の結果として追放が決まったのではない。最初から地位も居場所も奪うつもりで、宴が開かれたのだ。
聖女位の剥奪。王都からの即日退去。王家および治癒院への接触禁止。
「ずいぶん準備がよろしいのですね」
セラフィーナが言うと、役人は目を伏せた。
「決定事項です。祭服と聖杖を返還してください」
白銀の祭服を脱ぎ、簡素な服へ着替える。胸元の聖印まで外した時、自分の輪郭が一枚ずつ剥がされていく気がした。
祭服の袖には、過去の治癒でついた薄い染みが残っていた。
疫病区の子どもが吐いた薬。戦場で担架を運んだ時の泥。何度洗っても落ちなかった血。
役人は汚れた箇所を嫌そうにつまみ、返却箱へ投げ入れる。
セラフィーナは思わず手を伸ばしかけた。
衣服そのものが大切なのではない。その染みの一つ一つに、自分が誰かを救おうとした時間が残っている。
最後に聖杖《慈愛の燭台》を机へ置く。
杖の先で灯っていた金色の光が消えた。
役人が持ち上げようとする。聖杖は石のように重くなり、机から離れない。
二人がかりでも動かず、床へ固定されたようだった。
セラフィーナが指先で触れると、消えたはずの灯りが一度だけ戻る。
聖法院の役人たちが息を呑んだ。
「聖女位を剥奪したはずだ」
「位を与えたのは、杖ではなく聖法院です」
力の由来を制度と同一視していたのは、彼らの方だった。
「何をした」
「何も。杖が選んだのでしょう」
制度が聖女の名を奪っても、聖性まで役人の帳簿へ移せるわけではない。
役人は舌打ちし、杖を礼拝室へ残した。
セラフィーナに許された荷物は、小さな鞄一つだった。
私室へ戻ると、すでに侍女たちが戸棚を空にしていた。王家から贈られた衣装、宝飾品、婚約記念の品はすべて没収される。
残った私物は、母から届いた古い手紙と、幼い弟が作った木の小鳥だけだった。
それすら鞄へ入れる時、監視役が中身を確認した。
十九年生きた証が、片手で持てる重さしかない。
祈祷書、着替え、治癒院の患者記録。記録を入れようとすると没収された。
「もう、あなたの患者ではありません」
「患者かどうかを決めるのは、傷ついた方です」
役人は患者記録を火鉢へ投げようとした。
セラフィーナはその手首を掴んだ。
「個人情報を含む医療記録です。廃棄するなら、聖法院の規定に従い封印処理を」
「追放者が規定を語るな」
「私を罰することと、患者を危険へ晒すことは別です」
礼拝室の書記官たちが見ている前で、役人は規定違反を続けられなかった。
記録は没収された。それでも焼却ではなく、封印保管の箱へ移された。
セラフィーナは自分の手元へ残せなくても、患者の病歴だけは守った。
言い返すと、役人は処分記録へ何かを書き足した。
従順ではない、という印だろう。
以前なら評価が落ちることを恐れた。今はもう、彼らの評価が自分の何を決めるのか分からなかった。
その言葉が、婚約破棄より深く刺さった。
王宮を出る途中、中庭の門で騒ぎが起きていた。
子どもを抱いた母親が、衛兵へ縋っている。
「聖女様に、一度だけ診ていただきたいんです。熱が下がらなくて」
セラフィーナは反射的に近づいた。
「その子をこちらへ」
衛兵の槍が前へ出る。
「接触禁止命令です」
「今ここで診なければ、夜を越せないかもしれません」
「命令です」
母親はセラフィーナの簡素な服を見て、何が起きたか察した。
「悪女だという話は、本当だったのですか」
母親の腕の中で、子どもが苦しそうに息をする。
セラフィーナは噂を否定したかった。けれど今は、自分の名誉より子どもの呼吸が先だった。
「冷たい布を首と脇へ。水は少量ずつ。東門を出て二つ目の治癒所なら、解熱薬が残っているはずです」
衛兵に止められても、言葉でできることは伝える。
母親は疑いながらも頷いた。
疑いと恐れの混じった声。
セラフィーナは答えず、せめて子どもの熱だけでも下げようと手を伸ばす。
衛兵が母子を遠ざけた。
その時、子どもの身体が痙攣した。
母親が叫び、衛兵も反射的に槍を引く。
セラフィーナは許可を待たなかった。
地面へ膝をつき、離れた位置から治癒の光を細く伸ばす。全身を癒やすのではなく、呼吸を塞ぐ喉の腫れだけを抑えた。
子どもが大きく息を吸う。
同時に、セラフィーナの手首へ追放令の術式が焼きついた。命令違反を記録する赤い輪だ。
痛みで指が震える。
「これで私を拘束しますか」
衛兵は答えられなかった。
門前には、子どもが息を取り戻す瞬間を見た者が何十人もいる。悪女として追放した直後、王宮が救命を妨げたことまで公衆の前で示された。
母親は噂を疑った自分を恥じるように頭を下げた。
「お名前を、忘れません」
セラフィーナは赤い輪を袖で隠さなかった。
救った代価も、王宮が刻んだ事実として残す。
祈りの言葉が喉で止まる。
聖女でない自分が治癒を行えば、命令違反になる。従えば、救えるかもしれない命を見捨てる。
掌にはまだ光が集まっていた。
称号を失っても治癒は消えていない。
それでも今ここで力を使えば、母子ごと拘束される可能性がある。救うための行動が、相手を危険へ巻き込む。
初めて、自分の善意だけでは決められない場面だった。
これまで判断はいつも、聖法院と王宮が与えてきた。
聖女でない私は、何者なのだろう。
答えがないまま、王宮門を出た。
雨が降り始めていた。
行き先はない。家族のもとへ戻ることも禁じられ、所持金すらほとんどない。
王都の門は、これまで何度も通った。
遠征へ出る時は聖女の馬車が用意され、戻れば人々が祈りを捧げた。
今日は雨の中を一人で歩き、門番さえ目を合わせない。
役割がなくなれば、人はこれほど簡単に見えなくなる。
門前に、一台の黒い馬車が停まっていた。
黒銀の全身鎧をまとった男が、セラフィーナへ歩み寄る。赤茶の髪、辺境伯家の外套、大剣。
衛兵たちが緊張して道を開けた。
男はセラフィーナの前で片膝をつく。
「セラフィーナ様」
彼は命令するのではなく、許しを求めるように頭を下げた。
「あなたを保護する許可を、いただきたい」




