第026話 聖女の力はもう不要だそうです
第2章「偽りの冠、本物の剣」開幕。
利用され続けた聖女と、彼女を役目ではなく一人の人間として迎える辺境伯の物語です。
「本日をもって、私はお前との婚約を破棄する」
アルフォンス王子の声が、謁見の間に響いた。
直前まで楽団は祝福の曲を奏でていた。
婚約五周年を祝う宴だと聞かされ、セラフィーナは王子の隣へ立つための白い法衣を着てきた。けれど壇上には彼女の席がなく、代わりに見知らぬ金色の椅子が一つ置かれている。
貴族たちの杯にはすでに酒が注がれ、王宮広報官は宣告文の写しを抱えていた。
婚約破棄は衝動ではない。
何日も前から準備された公開処刑だった。
セラフィーナは腕に抱いた三冊の報告書を落とさなかった。
東治癒院の薬不足。南治癒院の寝台増設。王都大結界の交代要員。祝宴の前に、王子へ直接申し上げようと優先順位までつけてきた。
中央へ呼ばれたのも、その報告を求められたのだと思っていた。
「理由を、お聞かせいただけますか」
声は震えなかった。
「お前は聖女の地位を利用し、国庫を浪費した。治癒の成果を偽り、民の信仰を自分へ集めようとした」
王子が読み上げる金額は、セラフィーナにも覚えがある。
東治癒院の薬代。疫病区へ送った食料。大結界の修復用魔石。
すべて王宮が承認し、目の前の報告書に領収記録がある。
セラフィーナは一冊目を開き、王家の朱印がある頁を掲げた。
「東治癒院の支出は、殿下が先月承認なさいました。こちらが原本です」
広報官が宣告文から顔を上げる。
王子の署名と、王家にしか使えない印璽。偽造と呼べば、王宮の管理責任まで問われる証拠だった。
「その印は、私が押したものではない」
アルフォンスは紙を確かめずに言った。
「では印璽の不正使用として、今ここで調査を」
「話を逸らすな!」
王子の声が上ずる。
オルドールが衛兵へ合図し、報告書を取り上げさせた。頁を閉じる手つきが、証拠を調べる者ではなく隠す者のものだった。
広間の誰も、セラフィーナの説明が間違っているとは言わない。
ただ、正しいかどうかを確かめること自体が禁じられた。
浪費ではないと、紙一枚で証明できる。
それでも広報官の手にある宣告文には、すでに「国庫を私物化した悪女」と書かれていた。
貴族たちが囁く。
「やはり、あの寄付金も」
「平民出身では、品位まで求めるのは無理だったのね」
言葉があまりに揃いすぎていた。誰も驚いていない。今夜の祝宴が何のために開かれたか、知らなかったのはセラフィーナだけだ。
一人の老騎士と目が合った。
昨年、魔物に裂かれた彼の腕を朝までかけて繋いだ。騎士は何か言おうとしたが、隣の宰相オルドールが視線を向けると、口を閉じた。
助けた事実が消えたのではない。
事実より、権力へ従う方が選ばれたのだ。
王子の隣には、淡い金髪の令嬢が立っている。
リーゼ=ファルネ。旧ファルナ王国の血を引く、新しい聖女候補。
彼女は微笑んでいた。けれどセラフィーナと目が合った瞬間、青ざめた瞳が助けを求めるように揺れた。
「リーゼこそ、真に民を思う聖女だ」
リーゼの指は、ドレスの裾を白くなるほど握っている。
王子が彼女の肩へ手を置くと、身体がわずかに強張った。
恋敵として勝ち誇っている女性ではない。
何かに怯え、決められた位置へ立たされている。
アルフォンスが言う。
一拍の空白。
瞳の奥を黒い影が横切り、次の言葉だけが誰かに差し込まれたように続く。
「ゆえに、お前の力はもう不要だ」
不要。
八歳で聖性を見いだされ、家族から離された。
最初の冬、寂しくて泣いた夜、教師は言った。
聖女は民に必要とされている。選ばれたことを喜びなさい。
必要とされるなら、寂しさを我慢できた。
十二歳で初めて疫病区へ入り、十六歳で王都大結界の一角を任された。夜中に呼ばれれば起き、戦場から負傷者が戻れば朝まで祈った。
必要とされることが、自分の生きる理由だった。
それを一言で消された。
反論ならできる。国庫支出のすべてに聖法院と王宮の印がある。治癒記録も、結界の魔力波形も残っている。
反論すれば、リーゼが次の標的になるかもしれない。
彼女が洗脳されているとまでは分からなくても、自分の意思で立っていないことは見える。
ここで相手を悪女と呼び返せば、王宮が用意した争いの形へ乗ることになる。
セラフィーナは報告書へ指をかけた。
「申し開きは不要だ」
王子が先に遮る。
また、瞳に空白が生まれた。
それでも完全に操られている人の顔ではない。面倒な報告を任せ、祈りを当然のものとして受け取り、自分が倒れた夜に救われたことさえ忘れてきた甘えは、確かに彼自身のものだった。
セラフィーナは報告書を閉じた。
ここで事実を並べても、誰も聞く準備がない。
「承知いたしました」
「罪を認めるのだな」
オルドールが問い詰める。
セラフィーナは彼を見る。
「婚約破棄の宣告を承知したと申し上げました。事実でない罪を認めた覚えはございません」
「今後、私の名を用いて国庫支出を説明する場合は、この三冊を公開してください。患者名だけは伏せること。それができないなら、私の罪ではなく王宮の判断として記録を」
広報官の筆が止まる。
悪女が泣いて縋る筋書きには、記録の公開を求める台詞など用意されていない。
「記録係。今の発言は残しましたか」
壁際の若い書記官が震えながら頷いた。
オルドールが睨む。
それでも書記官は、消さなかった。
セラフィーナが宴で守れた最初のものは、自分の地位ではなく、後から事実へ辿り着くための一行だった。
広間の空気が変わる。
静かな声でも、従ったわけではないと初めて示した。
深く礼をする。
広間に安堵が走った。悪女が取り乱し、醜く縋る場面を期待していた者は、少し残念そうだった。
セラフィーナは背筋を伸ばし、謁見の間を出た。
扉が閉じるまで、歩調を崩さない。
腕の報告書から一枚が滑り落ちた。
東治癒院で救った患者の一覧だった。
拾おうとした手が震え、紙をうまく掴めない。通りかかった侍女が助けようとし、衛兵の目を見て足を止めた。
ここでも誰かが、正しいと思う行動より処罰されない行動を選ぶ。
セラフィーナは自分で紙を拾った。
白い回廊へ出た瞬間、壁へ手をついた。
胸が痛い。息が浅い。
悲しいのだと思った。
けれど奥から湧いてきたのは、涙ではなく熱だった。
治癒院で待つ人々も、結界の引き継ぎも無視して、自分を辱めるためだけに祝宴を使った。
善意も、祈りも、尽くした時間も、彼らの都合のいい時だけ利用された。
怒ってはいけない、と教えられてきた。
聖女は許し、微笑み、憎しみを抱かない。だから今湧く熱は、自分が聖女として失格になった証拠だと思いかけた。
けれど違う。
怒りは、踏みにじられたものが大切だった証拠でもある。
セラフィーナは胸元へ手を当てる。
「私は、悲しいのではない」
声にした途端、熱の正体が分かった。
「怒っている」
ここまで読んでくださりありがとうございます。続きも見届けていただけましたら嬉しいです。




