第024話 視点の移動
宿場の酒場では、聖女追放の噂が安酒の肴になっていた。
「王子を欺いた悪女だとさ」
「聖女様も金と男には勝てなかったか」
「辺境へ追放だ。二度と王都の土は踏めないらしい」
誰かが笑い、別の誰かが尾ひれをつける。
壁には、旅人が持っていたものと同じ新聞が貼られていた。紙の端には王宮広報局の印がある。
噂ではない。王宮自身が、セラフィーナを悪女として定着させようとしている。
ローグは壁際の席で聞きながら、卓上の硬貨を指で弾いた。
三人の旅人が、句読点まで同じ調子で「王子を欺いた悪女」と語っている。来た方角は別々だ。自然に広がった噂ではない。誰かが覚えやすい言葉を用意し、街道へ流している。
ローグは一人へ酒を奢り、王都を出た日時を聞いた。二日前。別の男は北門から昨日、最後の一人は今朝、早馬で来たという。
それでも全員が同じ文句を知っている。
情報が広がったのではない。各地で同時に配られたのだ。
「聖女がいなくなって、王都の結界は?」
ローグが尋ねると、酔客が声を潜めた。
「弱まってるらしいぜ。北門じゃ魔物まで出たとか」
「治癒院も閉まったって話だ。聖女様が毎週、魔力を入れてたらしい」
別の客が口を挟む。
「でも悪女だったんだろ。追い出して正解さ」
酒場の奥で、杖をついた男が杯を置いた。
「俺の脚を治したのは、その悪女だ」
男は北門警備隊の古い徽章を卓へ置く。
「魔物に膝を砕かれた時、王宮の医師は退役を勧めた。聖女様は三晩かけて術式を組み直した。治療費を払えないと言ったら、記録へ公費と書いた」
酔客が鼻で笑う。
「だから国庫を浪費したんだろ」
「公費の承認印は王子のものだった。俺は見た」
酒場が静かになった。
新聞には、承認した者の名がない。使った者だけが悪女として描かれている。
別の女が立ち上がった。
「南治癒院で、私の娘も救われた」
さらに商人が、結界事故の夜に聖女が朝まで塔へいたと証言する。
同じ文句を繰り返していた噂へ、具体的な名前と経験が一つずつ返されていく。
ローグは口を挟まなかった。
事実を知る者が自分で話し始めれば、義賊一人の告発より強い。
フィルが小声で言う。
「悪女、少し消えた」
「札は一度で剥がれない。だが下に名前があると分かれば、次は読む奴が出る」
自分の暮らしを守っていた相手がいなくなっても、与えられた悪評を信じる。
シャドウとは別の形の、見えない術だった。
聖女を追放した直後に結界が弱まり、それでも王宮は防衛より悪女の噂を優先している。
「臭うな」
フィルが王都の方角を見た。
「かなしい匂い。遠い」
「次は聖女の話らしい」
「助ける?」
「会ったこともない。まず本当の話を探す」
「かなしい人、いる」
「そうだな」
ローグは新聞を剥がし、裏面の配布経路を確かめる。王宮から北境へ向かう印が押されていた。
追放された聖女は、北へ送られた可能性が高い。
ローグは硬貨を卓へ置き、席を立った。
その噂が街道へ流れ始める少し前、王都ルミナスでは白い鐘が鳴っていた。
鐘は祝福の時に三度、国葬の時に七度鳴る。
その日は、どちらにも当てはまらない五度だった。
王宮が重大な宣告を行う合図である。
磨き上げられた王宮の回廊を衛兵が進む。その中央にいるのは、白銀の法衣を着たセラフィーナだった。
祝宴へ呼ばれたと聞き、彼女は治癒院の報告書を三冊持ってきていた。
東院の薬不足。南院の寝台増設。大結界へ供給する魔力の交代要員。
王子と話せる時間は短い。だから優先順位をつけ、必要経費まで書き込んだ。
自分の婚約を祝う席でも、頭にあるのは誰かを助けるための仕事だった。
両手に縄はない。罪人ではなく、まだ第二王子の婚約者として呼ばれている。だが衛兵の歩調は護衛ではなく、逃走を防ぐ者のものだった。
セラフィーナは、回廊の窓から大結界の光を見た。
今朝も自分が魔力を注いだばかりだ。淡い金色の膜が王都を包み、十万の民は、その維持者がこれから追われることを知らない。
疲労で指先が冷たい。
昨日は北門の結界修復、一昨日は治癒院で十二人の重傷者を癒やした。今夜の祝宴が終われば、深夜の祈祷へ戻る予定だった。
忙しいことに不満はない。
必要とされる限り、自分にはここにいる価値がある。
幼い頃から、そう教えられてきた。
謁見の間には貴族、神官、騎士たちが並び、誰も彼女と目を合わせない。
治療したことのある騎士もいる。寄付を頼みに来た神官も、子の病を癒やしてほしいと泣いた貴族もいる。
今日は誰も、感謝を口にしない。
セラフィーナは自分へ言い聞かせた。
感謝を求めて尽くしたのではない。務めを果たせば、それでよい。
それでも胸の奥で、小さな疑問が生まれる。
務めを失った時、自分には何が残るのだろう。
玉座の前に立つ王子が、一枚の書状を開いた。
その隣には、淡い金髪の若い令嬢がいる。
微笑んでいるが、喜びも敵意も感じられない。祝宴用の人形へ表情だけを貼りつけたような、不自然に整った笑顔だった。
セラフィーナと目が合うと、令嬢の瞳が一瞬だけ助けを求めるように揺れた。
次の瞬間には、何事もなかったように微笑へ戻っている。
謁見の間に漂う魔力も、どこか甘く、思考を鈍らせる香のようだった。
王子の瞳は熱に浮かされたように輝いている。
「セラフィーナ=ヴェイン」
名が呼ばれ、広間のざわめきが止まった。
セラフィーナは背筋を伸ばしたまま、王子を見返す。
怖くないわけではない。
王子は幼い頃からの婚約者だった。愛を語り合う関係ではなくても、国を支える同志だと思っていた。
彼が視察で倒れた夜、朝まで治癒の手を離さなかったこともある。
その王子の瞳に今、自分を知る者の温度がない。
けれど何を宣告されても、まず王都の結界引き継ぎを求めるつもりだった。それが聖女としての責務であり、自分の価値だと信じていた。
報告書を抱く腕へ、知らず力が入る。
紙の中には、彼女が守ろうとしてきた人々の暮らしがある。
自分の名誉より先に、それを守らなければならない。
「本日をもって、私はお前との婚約を――」




