第四夜『洗い流す器』
嫌なことを、忘れられたらいいのに。
そう思うことは、何度もあった。
仕事の失敗。
人間関係の軋み。
ふとした一言が、いつまでも頭に残る。
時間が経てば薄れる。
分かってはいる。
だが、それまでが長い。
その日、帰り道で見覚えのない路地に入り込んだ。
狭く、薄暗い路地だった。
雨も降っていないのに、地面だけが濡れている。
奥に、古びた骨董品屋があった。
看板の文字は擦れて読めない。
だが、なぜか目が離せなかった。
引き寄せられるように扉を開ける。
店内には、使い道の分からない品々が並んでいた。
ひび割れた人形。
蓋の閉じた時計。
黒ずんだ銀食器。
空気だけが妙に冷たい。
「何か、お探しですか」
奥から店主が現れた。
年齢の分からない男だった。
笑っているようにも見えるし、無表情にも見える。
「……いえ。ただ見てるだけで」
「そうですか。では、こちらなど」
店主が差し出したのは、古い洗面桶だった。
鈍い光を放つ金属製。
縁には細かな装飾が刻まれている。
「これは?」
「顔を洗うための器です」
店主は静かに続けた。
「これで顔を洗うと、嫌なことが薄れます」
「……薄れる?」
「ええ。ただし——無料ではありません」
店主は小銭を一枚差し出した。
「中に入れてからお使いください」
冗談とも本気ともつかない口調だった。
半信半疑のまま、桶を持ち帰った。
部屋に置いてみると、不思議と存在感があった。
桶に小銭を一枚入れる。
水を張る。
顔を近づけると、ひんやりとした空気が漂っていた。
試しに、顔を洗う。
冷たい水が肌を撫でる。
顔を上げた瞬間。
胸の奥に引っかかっていたものが、すっと消えていた。
あれほど気になっていた上司の言葉が、どうでもよくなっている。
「……楽だ」
桶の中を見る。
入れたはずの小銭は、消えていた。
それから、使う回数は増えていった。
仕事で嫌なことがあれば洗う。
人と揉めれば洗う。
気分が沈めば洗う。
そのたびに、心は軽くなった。
最初は小銭で足りていた。
だが次第に、それでは足りなくなる。
千円札。
一万円札。
払う額は増えていった。
それでも惜しくなかった。
悩まなくて済むのなら、安いものだった。
次第に、些細なことでも洗うようになった。
気に入らない視線。
曖昧な不安。
胸に引っかかる違和感。
すべて、水に流す。
考え込むことが減っていた。
迷うこともない。
怒ることもない。
傷つくこともない。
楽だった。
ある日。
会社で自分の席に座り、パソコンを立ち上げた。
ログイン画面が表示される。
社員番号を入力する。
エラー。
もう一度入力する。
『該当するデータは存在しません』
「……は?」
三度入力しても同じだった。
近くの同僚へ声をかける。
「あの、システムおかしくて——」
同僚はこちらを見る。
いや。
視線は、そのまま背後へ抜けていた。
「今日、来てないけど誰か聞いてる?」
別の社員が言った。
「連絡ないですね」
「最近ちょっと様子おかしかったし」
会話は続く。
自分の席を見下ろす。
誰も座っていない。
椅子だけが、中途半端に引かれていた。
机の上には、自分の荷物だけが残っている。
「これ、まだ片付いてなかったんだ」
誰かがそう言った。
段ボール箱が運ばれてくる。
自分の私物が、一つずつ詰められていく。
「待ってください」
声を上げる。
誰も顔を上げない。
胸の奥に、不安が浮かぶ。
だが、その感情すら煩わしかった。
帰れば洗える。
そう思うと、少し楽になった。
会社を出る。
交差点へ向かう。
信号は青だった。
視界の端で、何かが迫る。
強い衝撃。
体が宙に浮いた。
地面に倒れる。
息がうまくできない。
周囲には人がいる。
足音。
ざわめき。
誰かの笑い声。
なのに。
誰も、こちらを見ない。
倒れていることに、気づいていない。
「……たすけて」
声を出す。
反応はない。
通行人たちは、何もない空間を避けるように歩いていく。
遠くでサイレンが鳴った。
だが、その音は別の方向へ遠ざかっていった。
手を伸ばす。
誰にも触れられない。
視界が、ゆっくり暗くなっていく。
その頃。
路地裏の骨董品屋で、店主は静かに桶を覗き込んでいた。
桶の底には、水が張られている。
その水面に、一瞬だけ人の顔が浮かんだ。
すぐに崩れ、消える。
店主は満足したように頷いた。
店の奥には、無数の硬貨と紙幣が積み上がっている。
その隣には、古びた写真立てが並んでいた。
どの写真にも、人影だけが写っていない。
店主は紙幣を一枚、山へ加える。
「全て洗い流しましょう」
桶は再び、棚の奥へと戻された。




