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第三夜『どこへでも行ける地球儀』


旅行が好きだった。

知らない街を歩くのが好きだった。

見たことのない景色を見ると、自分の人生が少し広がった気がした。


だが現実は、そう簡単ではない。


時間もない。

金もない。


SNSに流れてくる海外の景色を眺めながら、ため息をつく日々だった。


行きたい場所はいくつもある。

けれど、自分はずっと同じ場所にいる。


その日、残業帰りに見覚えのない路地へ迷い込んだ。


細い路地だった。

街灯は薄暗く、人通りもない。


奥に、古びた骨董品屋があった。


木製の看板は擦れて文字が読めない。

なぜか、そこだけ空気が静かだった。

引き寄せられるように店へ入る。


店内には奇妙な品が並んでいた。


 錆びた懐中時計。

 ひび割れた鏡。

 黒ずんだ食器。


どれも古いのに、不思議と捨てられずに残ったような気配がある。


「何か、お探しですか」


奥から店主が現れた。


年齢の分からない男だった。

穏やかな顔をしているが、どこか感情が薄い。


「……いえ。ただ見てるだけで」


「そうですか。では、こちらはいかがでしょう」


差し出されたのは、小さな地球儀だった。


 アンティーク調の台座。

 表面には細かな傷がある。


そして、その横には細いピンが何本も置かれていた。


「ピンを刺した場所へ行くことができます」


「……行く?」


「実際に移動するわけではありません」


店主は静かに続ける。


「ですが、その場所にいる“記憶”を体験できます」


「記憶?」


「空気の匂い。風の感触。景色。音。

 すべて現実と同じです」


「夢みたいなものですか」


「いえ、記憶です」


意味は分からなかった。

だが、気になった。


女性は試しにピンを一本抜き、近くの国へ刺してみる。


その瞬間。

視界が変わった。


青い空。

石畳の道。

乾いた風。


見知らぬ街並みが広がっていた。

遠くで誰かが笑っている。

パンの焼ける匂いが漂う。

頬に触れる風まで、本物だった。


 ——確かに、そこにいた。


気づくと、店の中へ戻っていた。

心臓が早く打っている。


「……すごい」


「お気に召しましたか」


女性は迷わず地球儀を購入した。


最初は週に一度だけ、と決めていた。

仕事を終え、部屋で地球儀を回す。

ピンを一本刺す。


 異国の街。

 海辺のリゾート。

 山奥の小さな村。


短い時間だったが、それで十分だった。

現実の疲れが軽くなる。


また明日も頑張れる。

そんな気がした。


だが、回数は次第に増えていった。

週に一度だったものが、三日に一度になり、

やがて毎日になる。


仕事から帰ると、すぐ地球儀の前へ座った。

現実よりも、あちらの方が鮮やかだった。


ある時、違和感を覚えた。

訪れた街で、見覚えのある人影を見たのだ。


古びたコートを着た女。

こちらを見ていた。


だが、次の瞬間には消えていた。

気のせいだと思った。


別の日。

また同じ女を見た。

今度は市場の奥に立っていた。

こちらを見ている。


女性が近づくと、人混みへ紛れて消えた。

不思議だった。

なぜか、懐かしい気がした。


それからだった。

旅先で、同じ人影を見ることが増えた。


 海辺。

 駅。

 雨の路地。


どこへ行っても、その女はいた。

まるで、こちらを待っているように。


ある日。

女性は気づいた。

ピンが、ほとんど残っていない。

慌てて、あの路地へ向かった。


骨董品屋は、前と同じ場所にあった。


「ピンが、もうなくなってしまって」


「そうでしょうね」


店主は静かに頷く。


「追加はいかがですか」


差し出されたのは、小さな箱だった。

中には新しいピンが並んでいる。

女性は迷わず受け取った。

それから回数はさらに増えた。


短い時間では足りない。

もっと長く。

もっと遠くへ。


気づけば、現実の時間は削られていった。


食事は簡単なもので済ませる。

眠る時間も減った。


仕事にも影響が出始めた。

ミスが増える。

遅刻が増える。

注意されても、どこか他人事だった。


向こうの景色の方が、現実よりも鮮やかだった。

やがて女性は、仕事を辞めた。


時間はいくらでもあった。

地球儀を回す。

ピンを刺す。

また別の場所へ行く。


どこへでも行ける。

ここではない場所へ。


ある日。

石畳の街を歩いていると、あの女がいた。

広場の中央に立ち、こちらを見ている。

今度は消えなかった。


女性は近づく。

女の顔を見て、息が止まる。


自分だった。

やつれた顔。

虚ろな目。


女はゆっくり口を開く。


「まだ帰れると思ってる?」


その瞬間。

視界が暗転した。


 

数日後。

マンションの管理会社の人間が部屋を訪れた。

何度呼びかけても返事がない。

鍵を開け、中へ入る。


部屋は静かだった。


机の上には、小さな地球儀。

その横に、一本だけピンが落ちている。


だが。

部屋のどこにも、女性の姿はなかった。

荷物も、衣服も、生活用品も残っている。

まるで、そこにいた人間だけが消えたようだった。


 

その夜。

路地裏の骨董品屋。

店主は静かに地球儀を回していた。


無数のピンが刺さっている。

その一つへ、そっと触れる。


地球儀の表面に、小さな人影が浮かんだ。

石畳の街を、誰かが歩き続けている。


店主は微かに笑う。


「良い旅を」


そう呟くと、一本のピンをゆっくり抜いた。

地球儀は静かに回り続けていた。

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