第二夜『時間を覗く双眼鏡』
その路地を見つけたのは、仕事帰りだった。
見覚えのない細い道。
普段通っている駅前のはずなのに、そんな場所があった記憶はない。
薄暗い路地の奥に、古びた骨董品屋があった。
木製の看板は色褪せ、文字は読めない。
だが、不思議と目を逸らせなかった。
男は引き寄せられるように店へ入る。
店内には奇妙な品が並んでいた。
止まった柱時計。
黒ずんだ銀食器。
ひび割れた鏡。
空気だけが妙に静かだった。
「何か、お探しですか」
奥から店主が現れた。
年齢の分からない男だった。
穏やかな笑みを浮かべているが、感情が薄い。
「いや、ちょっと見てるだけで」
「そうですか。では、こちらを」
店主が差し出したのは、古い双眼鏡だった。
真鍮製の重たい双眼鏡。
側面には細かな目盛りのついた調整リングがある。
「距離ではなく、時間に焦点を合わせることができます」
「……時間?」
「過去や未来を見るのです」
男は思わず笑った。
「そんな馬鹿な」
「試してみますか」
店主は静かに店の外を示した。
半信半疑のまま、男は双眼鏡を覗く。
通りを歩く男へ向ける。
調整リングを回した。
視界が変わる。
笑顔で電話をしていた男が、
次の瞬間には荒れた部屋で怒鳴り散らしていた。
酒瓶。
散乱したゴミ。
赤く腫れた目。
男は思わず双眼鏡を下ろす。
「……今のは?」
「少し前の時間です」
店主は穏やかに答える。
男は黙ったまま、別の人物へ向けた。
今度はスーツ姿の会社員。
リングを未来側へ回す。
高層ビルの一室。
その男は高級そうな椅子へ腰掛け、余裕のある笑みを浮かべていた。
窓の外には夜景が広がっている。
「未来……?」
「見えたものを、どう受け取るかは自由です」
店主はそれ以上説明しなかった。
男は双眼鏡を購入した。
一万円だった。
「投資と思えば安い物です」
そう言うと、店主は静かに笑った。
それから男は、街へ出るたび双眼鏡を覗くようになった。
人混みへ向ける。
未来を見る。
成功する人間。
裕福になる人間。
幸せそうな人間。
見分けることができた。
最初は、ただ面白かった。
だが次第に、考えるようになる。
——成功する人間と関われば、自分も上へ行けるのではないか。
男は未来の良い人間へ積極的に話しかけ始めた。
起業する男。
出世する同僚。
成功する投資家。
未来を知っているという優越感が、男に自信を与えていた。
ある日。
駅前で、一人の女性を見かけた。
何気なく双眼鏡を向ける。
未来側へ調整する。
会議室。
女性は自信に満ちた表情で資料を説明していた。
周囲は真剣に耳を傾けている。
洗練された服装。
高層ビル。
成功者の顔だった。
男は思わず見入った。
数日後。
同じ場所で女性を見かけた。
男は思い切って声をかける。
会話は自然と弾んだ。
女性は笑った。
「なんだか、前から知ってる人みたいですね」
男は曖昧に笑い返した。
未来を知っている。
その確信が、男に余裕を与えていた。
やがて二人は付き合い始めた。
だが。
ある日、男は何気なく恋人へ双眼鏡を向けた。
未来側へ調整する。
見えたのは——
疲れ切った表情。
狭い部屋。
暗い照明。
誰もいない食卓。
女は一人、黙って座っていた。
幸せとは程遠い未来だった。
男は双眼鏡を下ろす。
「……なんだよ、それ」
胸の奥がざわつく。
一緒にいる時間は嫌いではなかった。
むしろ、落ち着いていたはずだった。
だが、その未来を見てから、気持ちが変わり始める。
このまま付き合っていても、幸せになれない。
なら。
もっと良い未来の人間を探した方がいい。
数日後。
男は街を歩きながら、片っ端から双眼鏡を覗いていた。
未来を見る。
成功している人間。
裕福な生活。
理想的な未来。
条件の良い相手を探す。
時間を無駄にはできない。
失敗したくない。
未来を知っているのだから。
ふと。
ショーウィンドウへ映る自分の姿が目に入った。
何気なく、双眼鏡を向ける。
リングを未来側へ回す。
一瞬だけ。
赤色灯が見えた。
砕けたガラス。
歪んだ道路標識。
「……?」
さらに先へ回す。
何も映らない。
暗いわけではない。
ぼやけてもいない。
最初から、そこに何も存在していなかった。
「……は?」
さらに回す。
何もない。
どこまで回しても。
何も。
その瞬間。
視界が大きく揺れた。
激しい衝撃。
体が宙へ浮く。
地面へ叩きつけられる。
遠くでブレーキ音が響いた。
誰かの悲鳴。
男の手から、双眼鏡が転がっていく。
ぼやける視界の中。
誰かが近づいてくる。
骨董品屋の店主だった。
店主は静かにしゃがみ込み、双眼鏡を拾い上げる。
レンズについた血を、布で丁寧に拭った。
軽く覗き込む。
満足したように頷く。
「問題ありませんね」
店主は男を見下ろした。
「未来は、見えましたか?」
そう呟くと、双眼鏡をケースへ戻す。
そして静かに、夜の路地へ消えていった。




