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第一夜『願いを叶える万年筆』

その路地に入ったのは、偶然だった。


休日の午後。

特に目的もなく街を歩いているうちに、見覚えのない細い道へ入り込んでいた。


薄暗い路地だった。

奥へ進むと、古びた骨董品屋があった。


木製の看板は色褪せ、文字は読めない。

だが、不思議と目が離せなかった。


引き寄せられるように店へ入る。

店内には奇妙な品が並んでいた。


 止まった時計。

 黒ずんだ食器。

 ひび割れた鏡。


どれも長い間、誰かの手元にあったような気配がある。


「何かお探しですか?」


奥から店主が現れた。

年齢の分からない男だった。

穏やかな笑みを浮かべているが、どこか感情が薄い。


「いや、見てるだけで」


「そうですか……では、こちらはいかがでしょう」


店主が差し出したのは、一本の万年筆だった。


黒い軸。

だが、よく見ると表面がわずかに歪んでいる。

まるで熱で溶けかけたようだった。


「願いを叶える万年筆です」


「……は?」


「書いた内容が現実になります」


男は思わず笑う。


「そんな都合のいい話あるかよ」


「現実とのズレは、自動で補正されますので」


店主は静かに続けた。


「できるだけ詳細に書くことをおすすめします」


「なんで俺に勧めるんですか」


「長年の勘です」


店主は薄く笑った。


「一度、試してみますか?」


差し出された紙を前に、男は半信半疑で万年筆を握る。

少し考え、書いた。


――財布に一万円入っている。


書き終えた瞬間。

財布の重みが変わった気がした。


開く。


一万円札が入っていた。

同時に。

コンビニで金を下ろした記憶が、自然に頭へ浮かんでくる。


 ATMの画面。

 レシート。

 財布へ札を入れた感触。


確かに、自分はそうした気がした。


「……なんだこれ」


「お気に召しましたか」


男はしばらく黙り込み、

やがて万年筆を見つめた。


「……いくら?」


「一万円です」


「高いな」


「なんでも叶うんですよ? 安いものです」


結局、男は万年筆を購入した。

店を出る時。

背後から店主の声が聞こえる。


「ゆめゆめ、使い方にはご注意を」

 


家へ帰ると、男はすぐ万年筆を取り出した。

机へ紙を置く。

試したいことはいくらでもあった。


『今日、携帯ショップで親切な店員に対応される。』


店へ向かう。

案内されたのは、笑顔の綺麗な女性店員だった。

対応は丁寧で、会話も弾む。


帰宅後、男は興奮したまま再び万年筆を手に取った。


『今日対応してくれた店員が、自分に好意を持っている。』


その夜。

携帯へメッセージが届いた。

相手は、あの店員だった。



それから男は、何度も万年筆を使った。


『仕事で評価される。』


『上司から気に入られる。』


『友人に誘われる。』


『昔から人望がある。』



願いは、すべて叶った。

現実は自然に補正される。

書き換わった過去を、周囲も当然のように認識していた。


だが。

時々、違和感があった。


学生時代のアルバム。

そこには、クラスの中心で笑う自分が写っていた。

友人たちに囲まれ、楽しそうに笑っている。


だが。

そんな記憶はない。 


「お前、昔から人気者だったよな」


同窓会でそう言われる。

知らない話で盛り上がる。

男は曖昧に笑うしかなかった。



母親から電話が来る。


「あんた、小さい頃から要領よかったものね」


聞いたこともない思い出話をされる。


だが。

否定しようとすると、

本当にそんな記憶があった気もしてくる。


 現実が変わるたび、

 記憶も補正されていった。 


男は次第に、不安になる。

どこまでが本当だった?


 机に向かう。

 万年筆を握る。


『私は成功していて、誰からも愛され、幸福な人生を送っている。』 


インクが紙へ染み込む。

その瞬間。

大量の記憶が流れ込んできた。


 恋人。

 友人。

 笑い声。

 成功。

 賞賛。


知らない人生。


「……っ」


頭が割れそうになる。

部屋を見回す。


 高級家具。

 飾られた写真。

 賞状。


全部、前からここにあった気がする。

なのに。


自分が何を好きだったのか、

何を嫌っていたのか、

思い出せない。

本当の自分が、分からない。


震える手で机を見る。

そこには、いつの間にか新しい紙が置かれていた。 


『私はこの万年筆を一度も使っていない。』


「……え?」


自分の字だった。

書いた記憶はない。



次の瞬間。

記憶が、音もなく崩れ始めた。


 部屋。

 家具。

 写真。

 人間関係。


すべてが、遠ざかる。

自分が誰だったのか、

思い出せない。



数日後。

路地裏の骨董品屋。

店主は静かに万年筆を拭いていた。


ペン先についたインクを丁寧に布でぬぐう。

満足したように頷き、棚へ戻した。


「書きすぎましたか」


店主は小さく呟く。

店内には、また静かな空気だけが流れていた。

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