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第五夜『価値が見える眼鏡』


 その店を見つけたのは、仕事帰りだった。


 見覚えのない細い路地。

 薄暗い道の奥に、古びた骨董品屋があった。


 木製の看板は色褪せ、文字は読めない。

 だが、不思議と目が離せなかった。


 引き寄せられるように店へ入る。


 店内には奇妙な品が並んでいた。


 止まった時計。

 ひび割れた鏡。

 黒ずんだ食器。


 どれも長い間、誰かの手元にあったような気配がある。


「何かお探しですか」


 奥から店主が現れた。


 年齢の分からない男だった。

 穏やかな笑みを浮かべているが、感情が薄い。


「いや、見てるだけで」


「そうですか。では、こちらはいかがでしょう」


 店主が差し出したのは、古い眼鏡だった。


 細い銀縁。

 レンズには細かな傷がある。


「物の価値が見える眼鏡です」


「価値?」


「本質、と言った方が正しいかもしれません」


 店主は静かに続ける。


「金額だけではありません。

 人も、物も、その価値が見えるようになります」


「……鑑定士みたいなもの?」


「近いですね」


 男は半信半疑で眼鏡を受け取る。


「試してみますか」


 


 男は店の棚へ視線を向けた。

 その瞬間。

 数字が浮かび上がった。


 時計。

 食器。

 絵画。


 それぞれに値段のようなものが表示されている。


「……え?」


 


 壁に掛かった絵を見る。

 石畳の街を描いた油絵だった。

 広場の隅に、小さく女が立っている。


 値札はない。

 代わりに、小さな札だけが添えられていた。


『一点ものにつき非売品』


 


 だが。

 眼鏡越しに見ると、

 その絵だけは何も表示されなかった。


 


「お気に召しましたか」


 店主が静かに言う。


「……いくらですか」


「一万円です」


 


 男は少し迷い、

 結局、眼鏡を購入した。


 

 最初は、ただ面白かった。

 


 フリーマーケットへ行く。

 眼鏡をかける。

 安物に紛れた高価な品が、一目で分かった。

 男は次々と掘り出し物を見つけた。


 転売すれば、大きな利益になる。

 次第に、眼鏡は手放せなくなった。


 骨董品。

 時計。

 ブランド品。


 偽物と本物が簡単に分かる。


 やがて男は、人にも眼鏡を向け始めた。

 取引先の社員。

 頭上に、高い数字が浮かぶ。

 有能なのだと分かった。


 一方で、愛想だけは良い上司には低い数字が表示されていた。


  男は次第に、人を数字で判断するようになっていく。


 恋人を見る。

 そこそこの数字。


「……こんなもんか」


 無意識に、そう思ってしまった。


 街を歩く。

 価値の低い人間ばかりだった。

 誰も、本物を理解していない。


 

 ある日。

 男は小さな画廊へ立ち寄った。

 壁に、一枚の絵が飾られていた。

 抽象画だった。


 他の客は誰も見向きもしない。


「売れなくて困ってるんですよ」


 店員が苦笑する。


「正直、落書きみたいで」

 


 だが。


 眼鏡越しに見た瞬間、

 男は息を呑んだ。


 見たこともないほどの価値表示。


「……え」


 桁を見間違えたかと思った。

 だが違う。


 男は平静を装いながら、

 値札を見る。


 三千円。

 安すぎる。


 周囲の客は誰も興味を示さない。


 男だけが、その価値に気づいていた。


 背筋が震える。

 自分には“分かる”。

 この絵は、いずれとてつもない価値になる。


 男は迷わず絵を購入した。


 部屋へ飾る。

 男は毎日、その絵を眺めた。

 素晴らしい。

 完璧だった。


 なのに。


 誰も理解しない。


「落書きみたいですね」


 恋人は困ったように笑った。

 友人も首を傾げる。


 ネットへ写真を上げても反応は薄い。

 男は苛立つ。


 なぜ分からない?

 これほど価値があるのに。


 耐えきれなくなり、

 男は恋人へ眼鏡を差し出した。


「見れば分かる」


 恋人は困ったように笑いながら、

 眼鏡をかける。


 しばらく絵を見つめる。


「……ごめん」


「やっぱり、よく分からない」


「落書きにしか見えない」


 男は息を呑む。

 そんなはずがない。

 これほどの価値なのに。


 なのに、彼女の目には何も映っていない。

 急に、恐ろしくなる。


 価値があるのに、誰にも理解されない。

 それは本当に、価値があると言えるのか。


 男は絵を見る。


 確かに、とてつもない価値が表示されている。


 だが。


 なぜ価値があるのか、

 もう説明できなかった。


 それからだった。


 街へ出ても、価値の低いものばかりが目につくようになった。


 会話。

 テレビ。

 流行。

 人間。


 全部、安っぽく見える。


 恋人と別れた。

 友人とも疎遠になった。

 理解できる人間がいない。


 ある夜。

 男は鏡の前で眼鏡を外した。

 ぼやけた自分の顔が映る。


 ふと。


 眼鏡をかけ直す。

 鏡の中の自分を見る。


 自分には値段が表示されていなかった。


「……なんでだ」


 顔を近づける。

 目を凝らす。



 次の瞬間。


 

 皮膚の下に、無数の数字が浮かび上がった。


 右目。

 肺。

 肝臓。

 心臓。


 部位ごとに、

 細かく値段が表示されている。


 男は息を呑む。

 人間としての価値ではない。

 素材としての値段だった。


 慌てて眼鏡を外す。


 だが。


 通行人を見るたび、

 頭の中に数字が浮かぶ。


 安い。

 価値が低い。


 食事。

 服。

 会話。


 全部、値段でしか見えない。


「……違う」


 男は頭を抱える。

 理解できる人間がいない。


 いや。

 自分が、理解できない人間になっていた。


 耐えきれなくなり、

 男は夜の街へ飛び出した。


 眼鏡を握り締める。

 捨てなければならない。


 そう思う。

 だが。

 男には分かっていた。


 この眼鏡が、

 どれほど価値のある道具なのか。


 骨董品や投資だけではない。


 人。

 才能。

 成功。

 本物を見抜ける。


 これさえあれば、間違えずに済む。


 金も、

 地位も、

 人脈も、

 全部手に入る。


 喉が渇く。

 惜しい。


 あまりにも惜しかった。



 だが。


 

 このまま持ち続ければ、

 自分はもう誰とも話せなくなる。


 世界が、値段にしか見えなくなる。

 男は目を閉じた。


 そして。


 人気のないゴミ置き場へ、

 眼鏡を投げ込んだ。


 金属のぶつかる乾いた音。

 その瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

 まるで、自分の人生を捨てたようだった。



 翌朝。

 ゴミ置き場の前で、

 店主は静かにしゃがみ込んでいた。


 汚れた眼鏡を拾い上げる。

 軽く埃を払う。


「価値は、共有されて初めて価値になります」 


 店主はそう呟く。


 眼鏡のレンズには、

 街の景色が歪んで映っていた。


 店主は満足したように頷き、

 静かに路地の奥へ消えていった。



 次の客はまだ来ていない。

 次は、どこの路地裏でお会いできるでしょうか。

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