第09話 七宮のあとで、終わりきらないまま
六宮、八宮神社を後にし、通りへ戻る。さっきまで身を置いていた場所の静けさが、わずかに遅れて外界の喧騒に混ざっていく。境内の中で切り替わっていた空気は、完全に消え去るわけではない。どこか薄い層として意識の底に残り、街の流れの中へ静かに溶けていく。その重なり合う感覚が、歩き出した後もしばらく続いていた。
次に向かうべき場所は、言葉にしなくても決まっている。順番として残っているのはあと一つだけで、そこへ行けば一通りは回ったことになる。しかし、その事実を先に口にしてしまうと、そこへ至るまでの時間が急に短くなる気がした。だから、僕たちはどちらともなく沈黙を選び、歩き出す。
大通りに出ると、人の流れがわずかに変わった。これまでの道よりも少しだけ視界が開けていて、歩行者の間隔も広い。その分、自分の歩幅を崩さずに保ちやすく、周囲に無理に合わせる必要がない。一定の速度で進める状態が続くと、ただ歩いている、という時間の長さが如実に伝わってくる。
「このまま行けば、七宮神社に出ます」
彼女が前を向いたまま、静かに告げた。
「はい」
「少し距離はありますけど、歩ける範囲です。たぶん、三十分くらいでしょうか」
「問題ありません」
それで十分だった。どのくらい時間がかかるのか、どの角で曲がるのか。そんな細かいことは、今の段階では必要ない。歩いていけば自然と埋まる空白に、すべてを任せておけばいいと思えた。
しばらくの間、無言のまま進む。彼女は少し前を歩き、決して振り返ることはないけれど、声をかければすぐに届く位置にいる。並んで歩くほど近くはなく、かといって離れていると感じるほど遠くもない。その中間の、絶妙な距離が保たれたまま、時間だけが背後へと過ぎ去っていく。
通りをいくつか越えるうちに、景色の移ろいが鮮明になってきた。建物の高さが揃っていた一角を抜け、少しずつ高さにばらつきが出てくる。それに伴い、空の見え方も広くなっていく。遠くまで視線が抜ける瞬間と、すぐに遮られる瞬間が交互に現れ、その繰り返しの中で、歩いている実感が少しずつ形を変えていく。
「さっきの六宮神社と八宮神社、やっぱり少し不思議な感じでしたね」
こちらから切り出すと、彼女は少しだけ歩調を緩めた。けれど、やはり振り返りはしない。
「不思議、というと?」
「進んだはずなのに、あまり進んでいないような感覚が残るというか」
「移動がなかったからだと思います」
「それもありますけど、それだけじゃない気がします」
少しの間が空く。彼女は前を見つめたまま、次の言葉を慎重に選ぶように歩を進める。
「どう違いましたか?」
「一つずつ進んでいたときは、場所が変わるたびに明確な区切りがあったと思うんです。でもあそこは、二つの場所が重なってしまった。だから、どこで切り替わったのかが掴みづらかったです」
「区切りが曖昧になったということですね」
「はい。順番は守られているはずなのに、感覚が追いついていない気がしました」
彼女はすぐには答えない。数歩分の沈黙を挟み、それからゆっくりと口を開いた。
「私は、あまり気になりませんでした」
「そうなんですね」
「順番が崩れていなければ、それでいいと思っているので」
一点の迷いもない言い方だった。ただ、その後に少しだけ言葉を付け足す。
「でも、言われてみると、区切りとしては弱くなっていたかもしれません」
「やっぱり、そう感じますか?」
「はい。場所が変わらない以上、一つの物語がそのまま続いているように見える部分は、確かにあると思います」
彼女はそこで一度言葉を切り、少しだけ声を低くして続けた。
「それでも、進んでいることには変わりありませんけど」
「その違いを抱えたまま、次に行くわけですね」
「そうなります」
会話はそこで穏やかに収まった。どちらの意見が正しいかという議論ではなく、それぞれの受け取り方がそのまま並んでいる状態。
通りをさらに進むと、車の音が少し遠のいた。代わりに、遠くから聞こえる生活音のような響きが混ざり始める。行き交う人の数も変わり、歩行者同士の間隔がさらに広がる。その中で、自分の歩むリズムが誰にも邪魔されず維持されていることが分かる。
「七宮神社は、少し離れています」
彼女が言う。
「ここまで回ってきた場所とは、少し雰囲気が違いますね」
「はい。他のところと比べると、中心から少し外れた位置になりますから」
「最後に残る感じが、少しあります」
「そうかもしれませんね」
彼女は否定せず、僕の言葉をそのまま受け取った。その物言いが、この場所のあり方をそのまま示しているようにも感じられた。
しばらく歩くと、前方にそれらしい入り口が見えてきた。目立つ場所ではないけれど、近づくと自然にそこだと分かる、不思議な存在感。
「ここが、七宮神社です」
「はい」
境内に入ると、これまでと同じように空気がふっと切り替わった。外界の流れから完全に断絶されるわけではない。けれど、歩く速度が自然に落ち、ただ立ち止まることに理由を求められない時間が始まる。
賽銭箱の前に立ち、硬貨を入れて手を合わせる。これまでと変わらぬ、いつもの動作。特別な感慨があるわけでもない。特に思考を巡らせることもなく、儀式は淡々と終わる。
手を下ろした後、少しだけ周囲を眺めてみた。目に映る景色はこれまでと大きく変わらない。けれど、ここまで歩いてきた時間が、そのまま地層のように積み重なっているように感じられた。順番としては最後の場所に辿り着いているはずだ。しかし、それを派手に示すような変化は、どこにもなかった。
「これで、八社巡り終了ですね」
彼女が静かに言った。
「はい」
短く答える。その言葉は、事実として正しい。順番としては、これですべて回ったことになる。
ただ、それで何かが完結したという実感は、どこにもなかった。
少しの間、僕たちはその場に立ち尽くしていた。誰も急ぐ様子はなく、かといって長く留まる理由もない。どちらでもない無為な時間が、静かに過ぎていく。
「終わったという感じはあまりしませんね」
こちらから問いかけてみる。
彼女はすぐには答えず、少しだけ間を置いてから、穏やかに言った。
「そうですね」
「一応、全部回ったはずなんですけど」
「はい。順番としては終わっています」
「でも、それだけというか……」
言葉が途中で消える。何が足りないのかは分からない。けれど、何も残っていないわけでもなかった。
彼女は前を見つめたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ここで終わりにするとは決めていませんでしたから」
「……そうですかね」
「順番が終わっただけで、その先をどうするかは、まだ白紙です」
その言い方には、微かな余白が含まれていた。これまでの厳格なルールとは少しだけ違う方向性が、ここで初めて顔を出す。
「この後、どうしますか?」
僕が尋ねると、彼女はすぐには答えなかった。少しだけ考えるような間があってから、口を開く。
「このまま帰ることもできますし、もう少し歩くこともできます」
「どちらでも、という感じですね」
「はい」
そこで一度言葉を切り、彼女は続けた。
「近くに、別の神社もあります」
「別のですか」
「はい。八社とは関係ありませんけど」
その提案には、これまでの流れとは少し違う色が混じっていた。順番の外にある場所が、ここで初めて示される。
「行きますか?」
尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「どちらでもいいです」
その答えは、決めているようでいて、何も決めていない。これまでと同じ曖昧さを保ったまま、次の目的地だけが、少しだけ中心をずらして現れる。
境内を出て、通りに戻る。外界の流れはさっきと変わらず続いていて、終わったはずの物語が、そのまま途切れずに残っているように感じられた。
歩き出すと、特に合図を交わしたわけでもないのに、自然と二人の方向が揃う。どちらが先に決めたわけでもないけれど、結果として同じ方角へ進んでいた。
終わったという事実は、確かにそこにある。
それでも、そのまま続いていくことの方が、僕には自然に思えた。
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