第07話 五宮のあと
五宮神社の坂を下りきった後の感覚は、上る前とはわずかに違っていた。街の喧騒に戻っても、足に残る重みが遅れてやってくる。その鈍い疲れの分だけ、さっきまでいた高台の静寂が、切り離されずに自分の中に続いているように感じられた。
本来なら街の騒音にすぐ塗り潰されるはずの静けさが、完全には消えない。どこか別の層として、意識の底に沈殿しているような不思議な感覚だった。
特別な出来事があったわけではない。それなのに、戻ってきたという事実だけが、微かな輪郭を持って心に留まっている。何かを得たわけでも、何かが劇的に変わったわけでもないはずだ。ただ、同じ場所に身を置いていたという時間が、完全にはなかったことにならない。その程度の確かな重さが、歩調に合わせて遅れてついてくる。
彼女と会わなかったことについて、深く考えることはなかった。けれど、考えないようにしていること自体が、何もなかったのと同義にはならない。『行けば会うかもしれない』という予感がどこかにあり、それが外れたという結果が、そのまま心の片隅に置かれている。
期待と現実。
その二つはどちらも間違っていないはずなのに、重ね合わせようとすると、どうしてもわずかなズレが生じてしまう。
連絡を取るべきかどうかも、結局決まらなかった。スマートフォンを開けばすぐに彼女の名前は見つかる。けれど、送信ボタンを押す正当な理由が見つからないまま、画面を閉じるほうが自然に思えた。五宮神社に行ったことを伝えるのは簡単だ。だが、それを伝えたところで何かが変わるとも思えない。そのままにしておくほうが、余計な形を持たずに済む気がした。
あの場で約束をしなかったことと、ここで連絡をしないことが、同じ線の上にあるように思える。どちらも決めないままにしておくことで、関係が固定されない自由な状態が保たれている。その均衡を崩すほどの動機が、今の自分にはまだ見つからなかった。
その日はどこにも寄らず、そのまま帰路についた。部屋に戻ると、外出前と何も変わっていない。何ひとつ変わっていない景色。しかし、外で過ごした時間が完全に切り離されることはなく、体温のように残っている。靴を脱いだ後も、坂を上ったときのふくらはぎの感覚だけが、わずかに遅れて主張を続けていた。
翌日も、その次の日も、これといって変わったことはなかった。時間は平等に過ぎ、決まった予定もなく、気が向いたら外に出る。そんな日常の中で、五宮神社の記憶だけが特別に呼び起こされることはない。けれど消えてしまうこともなく、心の片隅に据えられたまま、動かずにいた。
数日が過ぎた頃、ふと画面を開いた指が止まる。名前はすぐに見つかる位置にあり、タップすれば繋がる状態は変わっていない。連絡を取る差し迫った理由はない。けれど、取らない理由も特にないまま、その場でしばし硬直する。
五宮神社に行ったことを報告すべきだろうか? いや、そんな報告をするような間柄でもない気がして、結局画面を閉じた。あの場所に行くこと自体、それぞれの自由な判断に任されている。わざわざ共有する必要などないのかもしれない。共有しないままで成立しているこの関係を、あえて言葉にする意味が分からなかった。
それでも、何もない状態が続くことへの、微かな違和感は拭えない。約束をしていない以上、会わないのは当然のことだ。なのに、『行けば会うかもしれない』という淡い期待が尾を引き、それが解消されないまま、小さなしこりとなって胸に居座り続けていた。
その日の夜、短いメッセージを打っては消す、という無意味な作業を繰り返した。送るほどの内容ではない。けれど、完全に沈黙を守り続けることにも、わずかな抵抗がある。神社に行ったことを書こうとすれば業務報告のようになり、そうではない言葉を選ぼうとすれば、途端に内容がぼやけてしまう。
結局、何も送らないまま端末を置いた。決めなかったことを、そのまま維持する。それで問題はないはずだと自分に言い聞かせる。その判断が正しいのかは分からない。ただ、少なくとも今は、それ以上の踏み込みは必要ないように思えた。
さらに数日が過ぎた日の昼下がり。特に目的もなく、ただ時間が余っていたという理由だけで外へ出た。街にはこれまでと同じ人の流れがあり、その中に紛れれば、意識しなくても身体は前へ運ばれていく。
いくつかの角を曲がるうちに、自分が三宮の方向へ近づいていることに気づいた。意識して向かったわけではないけれど、そうなっていることに驚きはない。むしろ、この流れの中にいるほうが自分にはしっくりきた。
そのまま歩き続けると、見覚えのある入り口が視界に入る。足を止めるほどではないが、素通りするのも不自然に感じられ、僕は吸い込まれるように中へ入った。
境内には以前と同じように参拝客の出入りがあり、完全な静寂はない。けれど、街の空気とは明らかに切り替わっている。歩く速度が自然と落ち、立ち止まることに理由を求められない穏やかな時間が流れる。その中にいると、刻まれる時間の密度さえ少しだけ変わるような気がした。
賽銭箱の前に立ち、硬貨を入れて手を合わせる。一連の動作はこれまで通り、思考を介さずスムーズに終わった。手を下ろした後、何気なく周囲に視線をやる。
そこに、見覚えのある姿を見つけるまでに、さほど時間はかからなかった。距離は近すぎず、遠すぎない位置。前に会ったときと同じ感覚で、彼女の姿が視界に収まる。それが偶然なのかどうかを論理的に判断するより先に、”ただそこにいる”という事実が認識として胸に落ちた。来ると決めていたわけではないはずだ。なのに、結果として同じ場所にいるという状態が、必然のように成立している。
向こうも気づいたのか、ふっと視線が重なった。そのまま駆け寄るでも、慌てて離れるでもなく、絶妙な距離を保ったまま僕たちは立ち止まる。
「……久しぶり、というほどでもないですか。五宮神社、行きましたか? あそこ、やっぱり坂がきついので、行くタイミングを少し考えたほうがいいと思っていたんですけど」
一度にまとめて説明するように、淀みなく続けられる彼女の声。
「行きました。土曜日に。思っていたより長かったですね。途中で引き返すほどじゃないですけど、上りきるまでにはそれなりに時間がかかりました」
短く返すと、それで過不足ないように感じられた。
「やっぱりそうですよね。あそこ、上るのが大変だから行く日を吟味するんですけど。それでも行くときは『行くぞ!』っていう覚悟がいりますし、行った後にしか分からない感覚もありますよね」
「自分は、気づいたら行っていました。決めていたわけじゃないですけど」
「そういう行き方もありますよね。順番で考えると次になるので、頭の隅には残りますけど、それに合わせて動くかどうかは別というか」
彼女はそこで少しだけ言葉を区切ったが、話の熱量は変わらないまま続く。
「私、連絡しようか少し迷ったんです。でも、約束しているわけでもなかったので、そのままにしました」
「自分も、同じでした。連絡すれば会えると思ったんですけど」
言葉が重なる。けれど、それ以上に言葉を重ねる必要はないと思えた。少しの間、同じ場所に立ったままの時間が流れる。会話が途切れても、無理に埋める必要はない。そのままでも問題はないのだ。前よりも、その沈黙に対する違和感は少なくなっていた。
「次、どうしますか? 順番だと六宮神社ですけど、あそこ、少し離れていますよね」
彼女の提案は、決めるというよりは、共通の認識を確かめる行為に近い。
「そのときの都合で決める感じになりそうですね。前みたいに」
「そうですね。決めすぎないほうが動きやすいですし、そのほうが続けやすい気がします」
僕たちは少しだけ歩き出し、参道の端に寄った。人の流れから一歩外れたその場所。立ち止まってみると、通り過ぎていく人々の速度だけがやけに強調されて感じられた。
並んでいるわけでもなく、かといって離れているわけでもない距離。同じ方向を見ている。その状態が自分たちにとって特別ではないことが、以前よりも明確に理解できた。
しばらくして、自然に足が止まった。ここで別れるという流れが、言葉を介さなくても伝わってくる。
「じゃあ、また」
彼女が軽く手を挙げる。
「はい」
それだけで、十分だった。
振り返ることなく、僕たちはそれぞれ別の方向へ進み出す。
具体的な約束はない。けれど、順番という確かな指針は残っている。その状態が、前よりも少しだけ形を帯びたものとして、僕らの中に続いていた。
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