第05話 順番の内側
『土曜日の午前、四宮神社で』。
そんな取り決めを交わしてから、それ以上のやり取りは続かなかった。連絡先を交換したという事実は、確かに手元のスマートフォンの中に残っている。けれど、それによって何かが劇的に変わったわけではない。ただ、次に会う日時と場所がひとつだけ確定したという状態が、静かに横たわっているだけだ。
それ以上の意味を見出す理由も見つからないまま、時間はただ淡々と過ぎていく。メッセージの履歴が途切れていることに不自然さはなかった。むしろ、無理に言葉を重ねるほうが余計な気がして、結果として放置する形になる。それでも、完全に縁が切れたわけでもないという中途半端な位置にいることは、意識しなくても肌で感じられた。
連絡を取ろうと思えば、いつでも取れる。それなのにあえて何も送らないこと自体が、ひとつの選択として積み重なっているようでもあった。
当日が近づいても、そのことを強く意識することはなかった。ただ、予定があるという感覚が薄く残り続けているだけだ。特別な準備もいらないし、気を遣うような場面も思い浮かばない。決めた時間にその場所へ行けばいいという単純な事実が、余計な思考を綺麗に削ぎ落としてくれている。
それでも、『完全に何もない日と同じか』と問われれば、首を傾げることになる。どこか心の端に引っかかるものがあるのだ。その正体を突き止めようとするほどではないが、何も考えずに過ごすには少しだけ輪郭が浮き出ている。そんな感覚が、消えずに居座り続けていた。
当日の朝になっても、気分は大きく変わらなかった。時間に遅れないよう動くという目的だけがあり、それに従って準備を整え、外に出る。特別な高揚感があるわけではないが、かといって普段の散歩と同じとも言い切れない。ただ、決めた通りに物事を進めているという意識だけがあった。
四宮神社に着き、境内へ一歩踏み込むと、彼女はすでにそこにいた。探すまでもなく視界に入る位置で、特に何かをしているわけでもなく、ただその場に溶け込むように立っている。待っているという緊張感はなく、決められた時間の中に、一足先に入り込んでいるだけのように見えた。
視線が合い、僕が近づくと、自然に会話が始まる。
「おはようございます。思っていたより早く着いたつもりだったんですけど、もう来ていたんですね」
「おはようございます。少し前に着きました。時間より前に来ておいたほうが落ち着くので、いつもそうしているんです。待つ時間があるほうが、心に余裕ができる気がして」
その言い方には含みがなく、ただ自分の習慣を述べているだけに聞こえる。時間に合わせるというより、時間の前に到達しておくことを前提としている。そんな彼女らしい律儀さが伝わってきた。
「四宮神社、ここで合っていますよね? 前に見た別の場所と似ている気がして、少し確認したくなって」
「はい、間違いありません。順番通りなら、次がここになります。ここまでは迷うような道もありませんでしたし、スムーズに来られたと思います」
確認というよりも、共有されている前提をなぞるようなやり取りだった。それ以上の説明は不要だと言わんばかりに、僕たちは二人で境内の奥へと進む。
参拝を終え、社殿から少し離れた場所へ移動すると、周囲の喧騒がわずかに遠のいた。動きとしては極めて単純なはずなのに、同じ場所に立っているという事実が、以前とは違う手応えとして残る。
「ちゃんと順番、守っているんですね。こうやって順に回るって最初に決めたとしても、途中で変えたくなったりはしないんですか? 思ったよりも手間がかかる気もするんですけど」
「今のところ、それはないですね。最初に決めた通りに進めるのが一番分かりやすいですし、特に変える理由も見当たりませんから」
答えは短いが、そこに迷いの色は混じっていない。順番に従うことが彼女の中では絶対的な前提として成立しており、疑う余地さえないように見えた。
「そこまで守る必要って、ありますか? 途中で飛ばしたりしても、後で戻れば同じことでしょうし。そんなに順番に縛られなくてもいい気がするんですけど」
軽い冗談のつもりで言ったつもりだったが、言葉にして出してみると、少しだけ境界線を引くような響きになった。
彼女はすぐには答えず、わずかに間を置く。その沈黙は長くはなかったが、彼女が慎重に言葉を選んでいるのが分かった。
「順番があると、自分がどこまで来たかが自然に分かるんです。あとどれくらい残っているのかも含めて、全体の流れが途切れないまま見渡せるというか……。それを崩すと、途中で一度、何かが切れてしまう感じがするんです」
落ち着いたトーンで紡がれる説明は、強く主張しているわけではない。けれど、その価値観が揺るぎないものであることは伝わってきた。
「途中で切れても、最後に全部回りきれば同じじゃないですか。順番が入れ替わっても、結果は変わらない気がしますけど」
「結果としては同じかもしれません。ただ、進み方が違うんです。全部つながった状態で進んでいるほうが、私にはしっくりきますし、そのほうが安心できますから」
その言い方には独自の基準があり、順番そのものというより、順番によって保たれている心の平穏を重視しているように聞こえた。
「自分だったら、多分途中で投げ出すと思います。順番通りにやるのって、途中から急に面倒になりそうですし。全部をつなげて進めるほうが、かえって重荷に感じてしまうというか」
「そういう進め方もあると思います。ただ、私には合わないというだけで。どちらが正しいというわけではないと思います」
否定もせず、受け入れるでもなく、ただそれぞれのやり方として並べる。そのせいで会話は穏やかに収まっているが、同じ地点に立っているわけではないという事実だけが浮き彫りになる。
少しの間、言葉が途切れた。けれど、それを無理に埋める必要は感じない。終わらせる理由もないまま、ただ同じ場所にいるという事実だけが静かに横たわっていた。
「こうやって順番に来ていて、途中で止まってしまうことはないんですか? 都合がつかなくて間が空くこともあると思うんですけど」
「ありますよ。そういうときはそのまま中断して、また続きから来るだけです。順番があれば、再開する場所が明確に分かりますから」
「途中から再開することに、違和感はないんですか?」
「ないですね。むしろ、いつでも戻れる場所が決まっているほうが、安心できますから」
その答えを聞いて、彼女にとっての順番の意味が少しだけ見えた気がした。それは縛られるためのルールではなく、迷ったときに戻るための道標なのだろう。
同じ場所に来ているはずなのに、捉え方はまるきり違う。その差異は解消されることなく、そのまま残る。
やがて、どちらからともなく境内を後にする流れになった。表に出ると、街の雑踏が戻ってくる。さっきまでの静謐な空気が一段後ろに引いたように感じられ、隣にいた感覚が少しだけ遠くなる。
「今日はここまでにします。ここまで来られれば、一応の区切りとしてはちょうどいいので」
「ええ、そうですね」
「次は五宮神社になります。順番通りなら、そこが次の場所です」
「そうですね。その順番ですね」
それは単なる確認であって、約束ではなかった。具体的な時間を決めることもないまま、言葉は終わる。決めようと思えば決められる状況にあるのに、あえてそこまで踏み込まないまま幕を引く。
彼女はそのまま人の流れの中へ戻っていき、一度も振り返ることはなかった。僕もその場に少しだけ留まってから、別の方向へと歩き出す。約束して会ったはずなのに、別れ際はこれまでとほとんど変わらない。次にどうなるかも決まっていないまま、それぞれの日常へと戻っていく。
ただ、順番通りに進んでいるという事実だけが残り、その中に自分がどこまで含まれているのかは、まだ霧の中だ。けれど、同じ順番の中に一時的にでも並んでいたという感覚だけが、意識の底に置かれたまま、消えずに残り続けていた。
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