第04話 三度目の場所
二宮神社へ足を運んでから、数日が過ぎた。
あの日の出来事は、強烈な印象を残しているわけではない。けれど、どこか心の隅に置かれたままになっている。
思い出そうとすれば断片的な記憶はいくつか浮かぶが、それらは繋がることなく、ただそこにあるだけのように感じられた。時間が経てば自然に薄れていくはずなのに、消える気配もない。触れなければそのままの形で残り続ける、不思議な感覚だった。
あれが物語の続きなのか、それともすでに終わったことなのか。区切りをつける理由も見つからないまま、僕はただ放置している。
小銭の件も、解決していないことは分かっている。けれど、急いで片付ける必要も感じていなかった。むしろ、白黒つけてしまうことで何かが失われるような気がして、あえて触れないようにしている自分もいた。
その日の昼も、時間だけが中途半端に余っていた。何かを始めるには短すぎ、何もしないで過ごすには長すぎる。その曖昧な空白を埋めるのが面倒で、結局、外に出るという選択肢だけが残る。部屋にいると時間の進み方が不安定になる気がするが、外に出れば世界と同じ速さに揃う。その一点だけで、動く理由としては十分だった。
靴を履いて外へ出ると、空気の感触が室内とはわずかに違っていることに気づく。それだけで、澱んでいた気分が切り替わる。どこへ行くか決める必要はない。歩き出してしまえば、それで十分だ。決めないまま動くことに慣れると、決めるという行為そのものが余計な重荷に感じられた。
街へ出ると、人の流れが一定の速度で拍動している。その中に入れば、自分の歩幅も自然と馴染み、どこへ向かっているのかを考えなくても進めるようになる。目的を持たずに歩いているはずなのに、流れに乗ることで、自分という存在にそれなりの形ができてしまう。個別の意思がなくても、全体の動きに合わせることで、それらしく見えるのだ。
いくつかの交差点を渡り、見慣れた景色を抜けていくうちに、どの道を選んできたのかさえ曖昧になる。意識して曲がったはずの角も、振り返れば輪郭がぼやけていた。ただ、足だけは止まらず前へ進み続ける。選択の記憶よりも、移動したという結果だけが積み重なっていく。
やがて、見覚えのある通りに出た。ここまで来るつもりはなかったはずなのに、結果として三宮の周辺に近づいている。その事実に驚きはなく、むしろ自然に感じてしまう自分に少し戸惑った。意識していない方向へ進んでいるはずなのに、結局、同じ場所に辿り着くことが続いている。
引き返すこともできるが、そうする理由も見つからない。このまま進んだところで何かがあるわけではないが、戻ったところで何かが変わるわけでもない。僕は流れに沿うように、そのまま身を任せて歩き続けた。
人通りは多く、店の前を通るたびに視界がめまぐるしく変わる。立ち止まる人と通り過ぎる人の動きが重なり、その渦中にいると、自分も景色の一部として処理されているように感じられる。特に何かを選ぶこともなく、ただ隙間を抜けていく。個別の判断をしなくても、世界は進み続けていた。
三宮神社の入り口が見えたとき、ようやくここまで来てしまったのだという実感が形になった。来るつもりはなかった。なのに、結果としてここに立っている。理由を探そうとしても、どれも決め手にはならない。偶然と言い切るには重なりすぎているし、意図と呼ぶには確信が足りない。
通り過ぎることもできたが、そうするほうが不自然に思えて、そのまま境内へ入る。ここまで来て素通りするほうが、かえって余計な自意識を含んでいるような気がした。
中に入ると、通りの喧騒から少しだけ空気が切り替わる。音は完全には消えないが、遠くの出来事のように感じられ、歩く速度も自然と落ちた。人の気配はあるが、ただ立ち止まることが許される程度の余白がある。日常の延長でありながら、完全には混ざり合わない場所。
賽銭箱の前に立ち、小銭を取り出して入れ、手を合わせる。一連の動作に迷いはない。前に来たときよりも、意味を意識せずに済んでいることに気づく。ただ流れとして行っているだけで、それ以上の理由はない。行為だけが残り、付随する意味は薄れていく。
手を下ろしたところで、後ろから「あら?」という声が聞こえた。
振り返ると、彼女がいた。
一瞬だけ、間ができる。それは驚きというより、状況を整理するための時間のようだった。ここで会う可能性を期待していたのかは分からない。ただ、結果としてそうなっていることに違和感はなかった。前と同じ位置関係で立っていることが、極めて自然に受け入れられた。
距離は近すぎず、遠すぎない。意識しなければただの他人だが、意識すれば以前と同じであることがわかる、そんな距離。
「……また会いましたね。ここ、三番目になるので来てみたんですけど。あなたが来ているとは思いませんでした」
「自分も、来るつもりはなかったんです。ただ、この辺りにいたので、そのまま入っただけで。理由としては、ほとんど同じかもしれませんね。決めていなくても、結果だけ揃うことはありますし」
言葉を交わした後、会話は自然に途切れた。並ぶでも離れるでもない距離で歩き出すと、参道の端に寄ったところで人の流れから少しだけ外れる。通りから切り離されるほどではないが、周囲の動きから一歩引いた位置。
「ここは通り沿いなんですね。観光客や車が多くて、少し落ち着かない感じがします。短時間ならいいですけど、長くいるならもう少し静かな場所の方がいいかもしれません」
「長くいることは、あんまりないですから。こういう場所は、通りがかりに立ち寄るくらいが合っている気がします。時間をかける場所ではないのかな、と」
会話はそれ以上続かなかったが、それで十分だった。言葉が途切れても、関係まで途切れてしまうような不安はない。
少し歩いたところで、彼女が立ち止まった。
「次は、四宮神社ですね。順番だとそうなりますけど、行けるかどうかはその時の時間次第です。途中で区切ることも多いので、今日もここまでにするつもりです」
彼女の言葉を聞いて、自然と別れの予感が漂う。ここで終わる流れになることは分かっている。これまでと同じなら、そのまま別れて、それで終わるだけでいい。繰り返されてきた形としては、それが最も安定していた。
けれど、それをそのまま繰り返すことに、わずかな抵抗を覚えた。理由は判然としない。ただ、このまま流してしまうには、何かが少しだけ足りないような気がする。何が足りないのかは分からない。でも、ここで何も変えないことの方が、不自然に感じられた。
「……四宮神社、いつ行く予定ですか?」
口にしてから、自分でもその言葉の響きをなぞるように確認した。これまでとは違い、自分から流れを作ろうとしている。そのことに、僕自身が一番驚いていた。
彼女はすぐには答えず、少しだけ間を置く。その沈黙の中に、周囲の雑音が入り込んできた。
「まだ決めていないです。でも、いくつか回るなら休日になると思います。平日は難しいので、もし時間が合えば、という形になりますけど……。それでも大丈夫ですか?」
「問題ないです」
そこで一度、言葉が止まる。このまま別れれば、今の約束は宙に浮いたままになるだろう。必要な手順は分かっている。けれど、それを口にするには少しだけ勇気がいった。
「……連絡、どうしましょうか? 日程とか決めるなら、そのほうが確実だと思うので」
遠回しな言い方になったが、それ以上踏み込む勇気もなかった。
彼女は一度、こちらをじっと見る。
「そうですね。そのほうが分かりやすいと思います。じゃあ、交換しておきましょうか」
彼女はバッグからスマートフォンを取り出した。操作に迷いはなく、画面を開いたままこちらへ向ける。
「これで大丈夫ですか? 追加してもらえれば、そのまま送れると思うので」
「はい、大丈夫です」
僕も同じようにスマートフォンを取り出し、表示された連絡先を登録する。名前をどう入れるか一瞬だけ迷ったが、結局、苗字だけを入力した。余計な情報は必要ないと思えたからだ。
登録を終え、確認するように画面を見てから、僕は軽く頷いた。
「送っておきます。これで連絡は取れると思うので」
「ありがとうございます」
それで終わりだった。何かが劇的に変わったわけではないが、これまでとは違う形で繋がったことだけは確かだ。偶然だけで成り立っていた関係に、わずかに”手段”が加わった。
境内の出口に向かって歩く間、距離感は変わらないのに、流れる空気が少しだけ変化したように感じられた。言葉にするほどではないが、同じことの繰り返しではなくなっている。
外に出ると、いつものように人の流れが続いていた。
「じゃあ、また」
「はい」
それだけで十分だった。彼女はそのまま人波の中へ消えていき、振り返ることなく見えなくなる。僕もその後を追うことはせず、その場に少しだけ留まった。
三度目までは、ただ同じことが続いているだけだと思っていた。けれど今回は少し違う。偶然だけで繋がっていたものに、わずかな意図が混ざり込んだ。
歩き出すと、世界は相変わらずの流れを見せている。それでも、次にどこへ向かうかが完全に白紙ではなくなっていることに気づいた。
まだ具体的な予定が決まったわけではない。ただ、物語の続きが形を持ち始めているという感覚だけが、心の中にしっかりと残っていた。
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