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<全31ep> 神戸、八社のあいだで  作者: 第三ひよこ丸


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30/31

第30話 その先に置く名前

 並んで歩く時間は、今も続いている。

 同じ道を辿っているはずなのに、一歩を踏み出すごとに足の裏から伝わる感覚が、まるで違う場所を歩いているかのように変わっていく。これまで僕たちが積み重ねてきた淡い日々の記憶の上に、もっと切実で、もっと熱い別の意味が、静かに、ただ逃れようのない重さで上書きされていくのが分かった。

 

 見慣れているはずの街並みも、夕暮れに溶けていく風景も、そこにある形は何一つ変わっていない。それなのに、僕の目に映るすべてが、いまの二人の関係を前提にして、色彩さえも塗り替えられているように感じられた。


 言葉は、すでに一度交わされている。

 だが、それで物語が完結したわけではなかった。むしろそこから先、僕たちがどの地平に立って、どんな瞳で明日を見るのか。そのあまりに大きな問いだけが宙に浮き、その答えがいま、この瞬間の沈黙に委ねられている。

 

 隣にいるという事実。それはずっと変わらないまま、隣り合う肩の距離も、これまで通りの数センチを保っている。

 しかし、そこに含まれる意味の密度だけが、肌を焼くほどの熱を帯びて、確実に増していた。


 足音は、驚くほど自然に揃っている。意識して合わせようとしているわけではない。それなのに、僕と彼女の歩幅は寸分の狂いもなく重なり合い、そのリズムが崩れずに続いていることが、かえって今の関係の危うさと尊さを同時に突きつけてくる。

 

 このまま歩き続ければ、どこへ辿り着くのか。合わせようとせずとも離れていかないこの歩調が、僕たちの未来を先取りしているようで、胸の奥が締め付けられる。


 風がわずかに喉元を抜け、彼女が息を整える気配が伝わってきた。

 すぐには言葉にならない。出しかけた声を喉の奥で一度押し留めるような、ひりつくような沈黙が挟まれる。その短い空白の中に、彼女が抱える迷いと、それを引きちぎるような決意の両方が渦巻いているのが、痛いほど伝わった。

 

 彼女は一度だけ、すがるように視線を落とした。そのまま数歩、自分自身の心を確かめるように進み、ようやく、こぼれ落ちそうな言葉を必死に掬い上げるようにして、唇を戦かせた。


「……さっきの話、あのままで終わらせるなんて、私にはできません。あそこで『はい』と言って、それで伝わったことにしても、たぶん、何かが足りないんです。私の中には、まだ出し切っていない()()が、喉の奥まで詰まっていて……。これを言わないまま、『また明日』なんて顔をして別れたら、私、絶対に自分の気持ちを曖昧なままにして、一生、自分を許せなくなる気がします。だから……最後まで、私のわがままを全部、言わせてください」


 落ち着こうとして、自分を律しようとして、それでも指先まで震えているのが見て取れた。言葉の選び方はどこまでも丁寧で、慎み深い。

 

 その心の下では、煮えたぎるような感情が先に動き出し、今にもその殻を突き破ろうとしている。

 

 言い終えたあと、彼女は大きく肩を揺らして呼吸を整えた。その拍子に、揃っていたはずの足音が一度だけ激しくずれ、そして無理やり引き戻される。その一瞬の乱れが、彼女の覚悟の重さを物語っていた。


「……進みたい。そう言いました。でも、今のままの距離で『ただ続いていく』だけじゃ、もう嫌なんです。そんなの、今の私には、もう一秒も耐えられないくらい足りないんです。これまで、何も知らないふりをして隣にいました。穏やかに笑って、予定が合えば会って、そんな関係がずっと続くことを願っていたはずなのに……。今の距離のままなんて、もう絶対に無理! もっと、一歩踏み込むなんて言葉じゃ足りないくらい、あなたの内側に入り込みたい。この先の時間、あなたの隣を、私の特等席にしたいんです!」


 言葉が一度途切れる。それは終わりではない。次に進むための、魂を絞り出すような溜めだった。

 

 彼女はゆっくりと意志の宿った瞳で、僕を見つめてきた。その瞳は潤んでいて、それでいて逃げ場をなくすような鋭い光を宿している。


「……きちんと言います。言わないと、きっと私、世界で一番惨めな後悔をするから」


 そう前置きした瞬間、彼女の声が、ついに決壊した。抑えていた堤防が崩れ落ちる。


「……好きなんです。あなたのことが、狂おしいくらい好き。いつからなんて、もう自分でも思い出せません。気づいたときには、ここに来る理由はあなたに会うことそのものになっていて、あなたがいない時間は色を失って、あなたの言葉一つで、私の世界は天国にも地獄にもなるようになっていて……。そんなの、もう誤魔化せません! なかったことになんて、絶対にさせたくない!」


 言葉が、怒涛のように溢れ出す。震える声で、隠してきたすべてを僕の胸に叩きつけてくる。


「……このまま、あやふやな関係のまま終わらせたくありません。運が良ければ会える、なんて偶然に頼る日々はもう終わり! 私が、私の意志であなたを掴んで、この先もずっと、何十年先も一緒にいたい! そのために名前が必要なら、『恋人』という形が必要なら……、私は、どんな代償を払ってでも、それを今ここで受け取りたいんです!」


 声は激しく震え、言葉は乱れ、ただその中身はどこまでも、あまりに純粋にまっすぐだった。

 彼女は、最後の一歩を踏み出すために、肺が破れんばかりの勢いで息を吸い込んだ。


「……恋人として、私の隣にいてください。そういう形で、この先の私の人生を、全部あなたに預けたいんです!」


 叫ぶようにして放たれた言葉。そこでようやく、嵐のような独白が止まった。


 沈黙が、重く、熱く流れる。

 

 それは拒絶を待つ時間ではない。投げ出された彼女の全霊の想いを、僕がその両手で、一滴もこぼさぬように受け止めるための、あまりに神聖な時間に思える。

 自分の中に澱のように溜まっていた想いが、彼女の熱に煽られて、一気に澄んだ言葉へと変わっていく。

 

 歩幅は崩さない。隣にいる距離も変えない。ただ、僕の周囲に広がる世界は、先刻とは決定的に違う輝きを放っていた。


「……僕も、同じ気持ちです。いや、僕の方こそ、あなたを求めていたんだと思う」


 短く口にしたあと、僕もまた、剥き出しの想いを言葉に乗せる。


「……ここに来る理由。最初は、この場所の静けさや、特別な空気に惹かれているだけだと思い込もうとしていました。だが、本当は違った。あなたという光がここにいるから、僕はここに来た。あなたがいないこの場所なんて、ただの石畳の道に過ぎない。ずっと言葉にしないで、壊れるのを怖がって逃げていたけど……」


 言葉を選びながら、僕もまた心の境界線を踏み越えて、彼女の領域へと深く踏み込む。


「一緒にいたい。明日も、明後日も、その先もずっと。曖昧な名前のない続き方じゃなくて、僕自身の意志で選んだ、確かな形として。これからどんな変化が訪れても、どんな嵐が吹いても、全部君と一緒に引き受けると誓います」


 一度深く呼吸をし、彼女の瞳の奥を射抜くようにして、結論を告げる。


「……愛してます。恋人として、僕の隣にいてほしい。僕の生涯を、君に捧げたい」


 その言葉は、もうどこへも逃げない。この大気の中に、消えない楔のように打ち込まれた。


 彼女はすぐには答えなかった。数歩分の沈黙の中で、僕の誓いが彼女の細胞一つ一つに染み渡っていくのが分かる。

 

 やがて、小さく、ただ震えるような深い吐息のあとで、声が返ってきた。そこには、先ほどまでの激しさが嘘のような、万感の想いがこもった、とろけるような甘さと熱が滲んでいた。


「……っ、……、……あ……、……っ、あ……。嬉しい。嬉しいです、本当に。……ああ、神様、やっと、ようやく……ちゃんと、あなたの心が、届きました……」


 丁寧な口調を保とうとして、しかし隠しきれない歓喜が、嗚咽を堪えるような震え声に混じって漏れ出した。


「……こんなふうに、人生が変わる瞬間が来るなんて。でも、いまは、この方がずっと……ずっと自然。これまでの苦しいくらいの空白の時間があったからこそ、私たちはこうなれたんだって……心から、そう思えます。嬉しい……本当に、嬉しい……」


 言い終えたあと、彼女の全身から、ふっと力が抜けるのが伝わってきた。これまで彼女を縛り付けていた透明な糸が一本ずつほどけ、穏やかで柔らかな光が二人の間に満ち溢れる。


 足音は、今や一つの生き物のように完璧に揃って響いている。

 距離は変わっていない。それでも、その数センチの隙間に流れる空気の意味は、根底から書き換えられている。

 

 曖昧だったものは、もう二度と戻らない形となってこの地に刻まれた。並んで歩くという行為。その一見ありふれた動作の中に、世界を動かすほどの熱量が宿り、明日という未来へと力強く、脈動しながら続いていく。


 その先に置かれた名前は、すでに二人のあいだで、魂の奥深くで共有されている。

 もはや言葉にする必要すらないほど、確かな、不変の絆として、そこにあった。

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