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<全31ep> 神戸、八社のあいだで  作者: 第三ひよこ丸


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第29話 心の足跡

 並んで歩く時間は続いている。それでも、さっき交わした言葉は消えることなく残り、僕たちの周りの空気に溶け込んでいた。それは足取りと同じ速度で、ゆっくりと形を変えていくように感じられる。


 沈黙は決して、ただ軽く流れていくものではなかった。共有された想いを孕んだまま保たれ、その重みが距離の取り方や歩幅の揃い方にまで影響している。言葉を使わずとも、互いの気持ちが通い合っていることが伝わってきた。

 

 足音は揃いきらないまま響いている。しかし、合わせようとしていないのに離れていかない。その絶妙な重なり方が、今の二人の関係をそのまま表しているように思えた。


 横を見る必要はなかった。隣に彼女がいることが分かるだけで、今は十分だ。その存在が意識の中で途切れずに続くことで、これまでと同じ距離であるはずなのに、意味だけが変わっている事実を認めざるを得なくなる。

 

 言葉を交わしたあとの静けさは、何も起きていない時間の延長ではない。確かに何かを受け取ったあとにしか生まれない、特別な響き。その違いを、僕は肌で感じ取っていた。


 その状態のまま数歩進んだところで、彼女が一度だけ深く息を吸い込んだ。

 すぐには話しださない。

 言葉を出す直前で思い止まったような、わずかな間が挟まれる。

 その間が、これから続く言葉の重さを物語っていた。


 彼女は一度だけ視線を落とし、すぐに前を向く。

 その動きは小さいが、何を言うかを決めるための時間としては十分な長さを持っていた。


「……まだ、少しだけ続けてもいいですか。さっきのところで終わっても、たぶん問題はないと思います。でも、自分の中ではまだ終わっていない感じがあって、このままにすると、後で何度も考え直すと思うんです。だから、今ここで全部出しておきたいです」


 一度言い切る。だが、そのまま終わらない。わずかに呼吸が乱れ、そのあとに言葉が続く。


「……途中で止めるほうが、きっと後から苦しくなります。今ならまだ、ちゃんと話せると思うから。このまま、続けさせてください」


 声は整っている。しかし、その奥では隠しきれない揺れが残っていた。言葉を選んでいるはずなのに、その選び方が追いつかないほど、彼女の内側の動きが速くなっているようだった。


 彼女はもう一度だけ息を整える。その間に、足音がわずかにズレた。

 だが、すぐには戻らない。そのまま数歩分、ズレた状態が続いた。


「……さっき嬉しいって言いましたけど、それだけで終わらせるのは違うと思っています。もう少しちゃんと見ていかないと、自分でも分からないまま進んでしまいそうで、それは嫌なんです。今感じていることを、()()に確かめたい」


 言葉は落ち着いている。しかし、その奥では揺れが続いている。

 彼女は少しだけ間を空けた。完全に止まるわけではなく、次の言葉を選ぶための短い沈黙が入る。


「……最初に浮かんだのは、驚きでした。分かっていたつもりでも、言葉として聞いた瞬間に逃げ場がなくなって、そのまま受け取るしかなくなります。その感覚が思っていたよりも強くて、一瞬、立ち止まってしまったみたいになりました」


 呼吸が浅くなる。それでも彼女は、言葉を止めない。


「……でも、そのすぐ後で、別のものが重なってきました。考える前に入ってくる感じで、頭で整理するよりも先に、自分の中に残っていくような感覚。そのときに、あぁ、嬉しいんだって、分かりました」


 声がわずかに震える。

 抑えきれていない想い。


 彼女は一度だけ横を見る。視線はすぐに戻った。

 だが、その動きはさっきよりも、どこか名残惜しそうに遅かった。


「……思っていたよりも、ずっと強いです。もっと落ち着いて受け取れると思っていました。でも、実際は違っていて、少し戸惑うくらいにそのまま心に入ってきています。ただ、その戸惑いも含めて嫌ではなくて、そのまま受け取っている自分がいます」


 歩幅が揃う。今度は、もう崩れない。

 そのままのリズムで続いていく。


「……ここに来る理由の中に自分があると聞いたとき、それまでの時間がひとつにまとまった感じがありました。バラバラに見えていたものが、急に一本につながって。そのまま今に続いているんだって、信じられるようになりました」


 言葉が少し速くなる。内側でまとまり始めた想いが、せきを切ったように押し出されてくる。


「……だから、ただ嬉しいだけではなくて、安心に近いものもあります。続いてきた時間が、ちゃんと意味を持っていたと分かることで。それをそのまま受け取っていいんだと思えるようになっています」


 呼吸が乱れる。

 それでも止めない。


 彼女は一度だけ、完全に言葉を止めた。


 数歩分の沈黙が入る。

 二人の足音だけが、重なり合って響く。


 そのあと、少しだけ声が低くなった。


「……それと同時に、怖さもあります。このまま進むと、今までと同じ形ではいられなくなる。その変わり方がどうなるのかは、まだ見えていません。でも、それでも止めたくないんです」


 さらに続く。今度は間を空けずに言葉が重なった。


「……止めたくないです。ここで止めたら、今までの時間まで切れてしまう気がして。それは受け入れられません。続いてきたものをそのまま受け取るなら、その先も含めて考えたい」


 言葉が加速度を増していく。

 抑えていたものが、次々と外に出てくる。


「……嬉しいです。本当に、嬉しい。さっきよりも今のほうが、自覚できています。時間が少し経ったことで、自分の中で形が整ってきて。それがそのまま言葉になっています」


 声が明るくなる。

 隠しきれていない。


「……こうやって言葉にしてもらえたことで、ここまでの時間が全部つながっていたと分かるのが、一番大きいです。偶然ではなく、()()()()()()()として受け取れることが、そのまま安心につながっています」


 まだ終わらない。

 さらに続く。


「……たぶん、前から少しずつそうなっていたんだと思います。気づいていなかったわけではないです。ただ、あえて気づかないままにしていた部分があって。それが今ここで、全部つながりました。だから急に変わったというより、やっと追いついた感じです」


 また、呼吸が乱れる。

 それでも、止まらない。


「……さっきから同じことを話している気がするんですけど。それでも止めたくないです。ちゃんと全部言っておかないと、このまま曖昧にしたくないと思っています。言葉にしておかないと、あとで自分で自分を誤魔化しそうで、それが怖いです」


 さらに続く。

 声が少し、感極まったように崩れ始める。


「……だから、進みたいです。このまま終わるよりも、続けるほうを選びたい。どうなるかは分かりません。でも、そのほうが自然だと思えています」


 一度、止まる。

 だが、終わらない。


 小さく、もう一度。


「……あの、さっきからずっと思っているんですけど。こうやって言葉にしてもらえたこと自体が、すごく嬉しいです。自分がここにいていい理由を、そのままもらったみたいで。それが消えないことが分かって、少し安心しています」


 息を整える。

 最後に、力強い意志を込めて。


「……だから、大丈夫です。ちゃんと分かったうえで、それでも進みたいと思っています」


 ようやく、言葉が止まった。

 出し切ったあとの、穏やかな静けさが残る。沈黙は崩れず、深い意味を持ったまま続いている。足音は揃ったまま、無理なく重なり続けていた。


 戻るのではなく、進む方向だけが残り、その選び方がすでに共有されている。それは言葉にしなくても、肌で感じられることだった。


 その感覚が、歩いている時間の中に、確かな形として、途切れることなく残り続けていた。

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