第28話 踏み出した一歩の先で
隣り合って歩く時間が続いている。会話が途切れても気まずさはなく、穏やかな流れが静かに続いていた。そのことに、僕は少し遅れて自覚する。
何も話していないのに、二人の間が切れてしまうことはない。同じ道を進んでいる。それなのに、重なり方だけが以前とはわずかに変わったように感じられた。
足音は揃いきらず、無理に揃えようともしていない。それなのに、完全にはばらけない絶妙なリズムが続いている。
その中途半端な重なり方が、今の僕たちの距離をそのまま示している。
どこへ向かうかも決めていない。それでも足は自然に進み、止まる理由も見当たらないまま、同じ方向へ進み続けていた。
並ぶ距離は変わっていないはずだ。しかし、以前より少しだけ近くに感じる。その違いを説明する言葉は見つからない。ただ、意識の奥に残り続けている。
横を見るわけではない。それでも、隣にいる気配が前よりも鮮明に伝わってくる。
その伝わり方が以前より具体的で、曖昧なままにはしておけない予感があった。
彼女が前を見つめたまま、わずかに息を整えた。その動きは小さいが、あとに続く言葉を選びきれずにいる様子が、手に取るように分かった。
「……さっきの話、やっぱりそのままにはできません。来る理由のことなんですけど、前は何も考えずに来ていたって言ってましたよね。でも、今は少しあるって。その中に、私が含まれている気がしています。たぶん、勘違いではないと思ってますし、もし違うなら違うって言ってもらったほうが楽なんです。それでも、今の流れだと、そういう意味で受け取るしかない気がして」
言葉は丁寧に選ばれている。それなのに、途中から少しずつ速度が上がっていった。
抑えていたものが、形を保ったまま表にあふれ出している。
すぐには返せず、言葉を選ぶ沈黙が生まれた。その短いはずの時間が、これまでよりもずっと長く感じられた。
「自分でも、決めつけすぎているかもしれないとは思うんです。それでも、ここまで積み重なってきたものを考えると、全く関係ないって言うほうが無理がある気がして。そのまま曖昧にしておくのも、違うと思うから」
「……前は、本当に何も考えていなかったです。時間があれば来て、なければ行かないっていうだけでした。でも今は、行くかどうか考えるときに、ここに来たときのことを思い出します。その中に、一緒にいた人のことも含まれています。だから、同じことをしているつもりでも、前と同じではいられないし、ただ来るだけでは終わらなくなっています」
言いながら、自分の中でも形が定まっていく。
彼女はすぐには返さなかった。そのまま数歩進み、足音が揃いかけては崩れる。
その崩れ方が、これまでよりも少しだけ大きい。
歩幅を整えようとしているのが分かる。それなのに、すぐには元に戻らなかった。
「……やっぱり、そうなんですね。分かっていたつもりでした。たぶんそうだろうとも思っていました。でも、今みたいにちゃんと聞くと、そのままではいられないし、考えていたときの感じと、実際に聞いたときの重さが違います。頭の中で想像していたときは、もう少し遠いところの話として扱えていた気がするんですけど。今はそういう距離じゃなくなっていて、逃げられない位置に来ている感じがします。……それ、私のことですよね?」
「……はい」
短く答える。その一言で、曖昧だったものが決まる。
彼女は視線を落とし、そのまま戻そうとする。しかし、ほんの一瞬だけ動作が遅れた。
その遅れが、隠しきれない動揺として伝わってくる。
「……そうなんですね。思っていた通りなのに、思っていた通りじゃないです。分かっていたはずなのに、こうやって言われると、そのまま受け取るしかなくて、少し息が詰まる感じがします。頭の中ではある程度考えていたつもりだったんですけど、実際に言葉として聞くと、その考えていたものが一気に現実のほうに引き寄せられてくるというか。逃げ場がなくなる感じがして、うまく距離が取れなくなります」
呼吸がわずかに乱れる。それでも、言葉は止まらない。
「……今ここに来ているのも、私に会うためっていう理解でいいんですよね? 違うって言われたら少しだけ楽になると思いますけど、それでもたぶん、今の流れだと違わないですよね? そう思っているからここまで聞いているんですし、もし本当に違うなら、そのほうが整理しやすい気もします。それでも今は、そういう答えにはならない気がしています」
「……そうです。会うために、来ています」
言い切る。その言葉は、消えることなくその場に残る。
彼女は一瞬だけ息を止め、それからゆっくりと吐き出した。
その吐き出し方がこれまでよりも長く、抑えていた感情が外に出ているように見えた。
「……そうですか。少し、驚いています。分かっていたはずなのに、実際に言われると、そのまま受け取るしかなくて。思っていたよりもずっと強く残ります。考えていたときよりも、ずっと近い位置に来る感じがします。でも、それと同時に、嬉しいとも思っています。来る理由の中に自分が入っていると聞くと、そのまま否定することはできないし、ちゃんと受け取ってしまう。その分だけ、軽く扱えなくなります」
言葉が続く。まだ、止まらない。
「……ただ、そのまま素直に喜んでいいのかは、まだ分からないです。嬉しいって思うことは自然だとは思います。でも、そのあとをどうするのかが決まっていないから、この気持ちをどこに置けばいいのかが分からない。このまま受け取ってしまうと、前と同じようには戻れなくなることも分かっています。それを分かっていて受け取るのか、少し距離を置くのか、その選び方もまだ決まっていません」
さらに想いが重なる。
「……それに、少しだけ悔しいとも思っています。分かっていたはずなのに、先に言われてしまった感じがあって。自分の中で考えていたことが、追いつかないまま形になってしまった気がします。本当は、もう少し自分の中で確かめてから向き合いたかった気持ちもあります。でも、その時間を待つよりも先に、こうやって言葉になってしまったことで、その順番が変わってしまった感じがします」
声は落ち着いている。それなのに、その中身は激しく揺れていた。
「……でも、その悔しさも含めて、ちゃんと受け取ります。なかったことにはできないし、ここで止めることもできない。むしろ止めてしまったら、そのまま曖昧に戻るだけになる気がして、それは違うと思うから。だから、このまま受け取った状態で考え続けるしかないでしょうしね。それを選んでいるのも、自分だと思います」
まだ、終わらない。
「……どう受け取るかは、まだ途中です。すぐに答えを出すのは違う気がします。かといって、何も変えないまま続けるのも違う。でも、今こうやって聞いた以上、このまま何もなかったみたいに戻ることはできません。それを選びたいとも思っていません。だから、変わることを前提にして続けるしかないんだと思います」
呼吸が浅くなりながらも、言葉は止まらなかった。
「……だから、このまま続けるなら、前と同じ距離ではいられないです。何も考えずに並んでいく形には戻れない。これから、少しずつでも変わっていくと思います。その変わり方がどうなるのかはまだ分からない。それでも、そのまま進むこと自体は、自分で選んでいるつもりですし、選ばされている感じではないです」
その言葉は、やわらかく揺れを含んだまま残る。
並んで歩く時間は続いている。しかし、その中に含まれている意味はすでに変わっていた。
同じ動作のはずなのに、同じではいられない状態が、そのまま続いている。
足音が揃いかけて、またわずかにずれる。その繰り返しが、今の僕たちの関係をそのまま表しているように思えた。
完全には揃わない。それでも、離れていくわけでもない。
その位置が、そのまま残る。
分かっていたはずのことが、言葉になったことで確かな形を持ち、その形が消えずに残る。
その残り方が、彼女の中に驚きと動揺と喜びと、そしてわずかな悔しさを同時に生み出していることが分かる。
そして、その全部を受け取ったうえで、それでもここに残ろうとしていることも、動きの中から伝わってくる。
その事実だけが、これまでとは違う重さで、静かに残り続けていた。
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