表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<全31ep> 神戸、八社のあいだで  作者: 第三ひよこ丸


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/31

第25話 まだ振り返らない

 ここ数日、足を運ばなかったことについて、ひとつにまとめて説明できる理由は最後まで見つからなかった。

 

 意識的に避けていたわけではない。その日の流れの中で、外出のタイミングを少し後ろに回した結果として、そのまま別の用事に手を取られてしまったり、一度外へ出たあとで、今から向かうには時間的な余裕がないと判断したりと、その場その場で選んだ動きが、そのまま次の動きに繋がっていっただけだった。

 

 ひとつひとつの選択はごく軽いもので、その瞬間には妥当な判断だと思えていた。しかし、その軽い積み重ねが何日か重なっていくうちに、行かない状態の方が自分にとって普通のことのように感じられてきたのだ。


 行こうと思えば行ける時間は、いくらでもあったはずだ。どの機会も、決して難しい条件を伴っていたわけではない。ただ、その都度、そこへ向かうよりも別の動きを優先した方が、その日の流れとして収まりが良いように思えてしまった。その判断を無批判に通し続けた結果として、空白の日々が続いていただけのこと。

 

 その積み重なりは目に見えるほど劇的な変化ではない。だが、それは確かに埋めがたい距離のようなものに変質していた。どこで引き返せばよかったのかを考えようとしても、決定的な境目は見つからない。戻ろうとするなら、どこかで一度だけ強く自分を動かす必要があったはずだが、その熱量を捻り出す理由が見つからないまま、ただ時間だけが進んでいく。何も決めないまま、距離だけが静かに広がっていた。


 そうした数日を挟んだあとで、今日ここへ向かっている理由もまた、確かな意味を持ってはいなかった。

 

 行くべきだと義務感に駆られたわけでもなく、行かなければならない切実な事情があったわけでもない。ただ、行かないままでいることを、そのまま惰性で続けることに、説明のつかない胸騒ぎを覚えただけだ。それを放置できずに外へ出た、という感覚に近い。動機はあまりに弱く、途中で引き返そうと思えばいくらでもやめられたはずなのに、それでも歩き続けているという事実だけが、一歩遅れてついてくる。


 道を進みながら、この行動に何らかの意味を与えようとするが、その試みは途中で形を失う。理屈を整えようとすればいくつかの言葉は浮かぶ。だが、そのどれもが後付けで都合よく書き換えたような感触を伴い、今の足取りと同じではない。


 来たからといって何かが劇的に変わるとも思えず、行かなかったとしても生活に困ることはなかったはずだ。それなのに、今日はどうしても足が止まらなかった。その、『止まらない』だけが事実として残り、それ以上の言い訳はうまく考えられなかった。


 ここに来れば会えるかもしれない、という淡い期待をしているわけではない。それよりも、もう彼女は来ていないのではないか、という諦めに似た気持ちの方が先にあった。誰にも会わずにそのまま帰ることになっても、それはそれで自然な結末だと思っている。そのつもりで歩いているはず。それなのに、歩みの途中で何度も、視線が勝手に周囲を求めて彷徨ってしまう。


 特定の誰かを探しているつもりはない筈。だが、視界に入る人々の位置や動きが、やけに敏感に意識に飛び込んでくる。そのたびに、自分がどこを見ているのかを自覚し、慌てて意識を戻すことになるが、その不随意な動きは完全には止まらない。

 

 一度視線を戻しても、少し経つとまた別の方向へ引かれるように眼球が動き、その繰り返しが、自分の心の中でまだ何ひとつ完結していないことを突きつけてくる。探していると認めるつもりはないが、何も気にしていないと言い切れるほど無関心でもない。その、どちらの岸にも辿り着けない中途半端な状態が、歩いている間、何度も何度も繰り返された。



 境内に入ると、通りとは種類の違う静けさが広がり、その静けさに包まれることで歩く速度が自然に落ちる。その変化自体はこれまでと同じはずだ。しかし今日は、その切り替わりが一拍ほど遅れて感じられた。身体はすでに結界の内側に入っているのに、意識のほうがいまだに外の喧騒を引きずっている。


 参道を進む間も、視線は前に向けているが、焦点は完全には定まっていない。横を通り過ぎる参拝客や、立ち止まっている人の位置が自然に視界の端に滑り込み、そのたびに一瞬だけ意識がそちらへ持っていかれる。その動きが、自分の意思とは違う場所で起きていることに気づきながらも、それを制止する理由は見つからない。何も考えずに歩いているつもりでも、実際には何かを拾い続けている。そして、その情報の拾い方が、いつもよりもわずかに偏っていることにも、僕は気づいていた。


 賽銭箱の前で足を止め、小銭を取り出す。指先に触れる硬貨の感触が、今日は少しだけ冷たく感じられた。その違いがどこから来ているのかは分からないまま、五円玉を滑り込ませ、手を合わせる。動作そのものはこれまでと同じ。それなのに、ひとつの動きが流れとして自然に繋がっていかない。いつもであれば一連の所作として通り過ぎていくはずのものが、今日はコマ送りのように細かく分かれているように感じる。


 手を下ろしたあと、すぐには動き出さずに、その場に留まる。

 ここで(きびす)を返せば、今日はただ来ただけの一日で終わることになる。その終わり方に不満があるわけではなく、それで十分だと自分を納得させることもできるはずだった。それなのに、そのまま歩き出すことに対して、泥濘に足を取られたような抵抗を感じる。その抵抗は形を持たず、言葉にしようとすればすぐにほどけてしまうが、消えることはなく、同じ位置に居座り続けている。帰ることは容易だ。だが、それで本当に終わっていいのかという問いだけが、頭の中を絶え間なく駆け巡る。


 その問いに答えを出そうとしても、どちらの選択をしても納得しきれる気がしなかった。帰れば、それはひとつの幕引きになる。

 だが、その終わり方は中途半端な後悔として、心に澱を残すかもしれない。かといって、もう少しだけこの場に留まるという選択も、その『もう少し』がどこまでを指すのかが決められない。どちらを選んでも完全には収まりがつかないまま、判断だけが宙吊りの状態になる。


 そうした曖昧さを抱えたまま、重い身体を動かそうとしたその瞬間。

 背後の空気が、わずかに変わったように感じた。


 大きな音がしたわけではない。誰かが不意に声を上げたわけでも、足音が強く響いたわけでもない。

 

 ただ、それまでの背後の空間が、以前と同じではなくなったということだけが、感覚として伝わってくる。その差異はあまりに微細で、意識のアンテナを張っていなければ通り過ぎてしまう程度のものかもしれない。しかし、一度気づいてしまうと、もう無視することはできなかった。


 その変化に触れた瞬間、動きかけていた足が止まる。

 振り返るべきかどうか、思考が激しく揺れ動く。


 ここで後ろを見れば、その正体がわかる。それが正しい選択なのかどうかは分からない。

 視線を向けなければ、そのまま何もなかったこととして進むこともできる。どちらを選んだとしても、客観的な現実に大きな違いはないはずだ。それなのに、僕はその決断を下すことができなくなっている。


 もし振り返ったとき、何が起きるのか。何も起きない可能性もあるし、ただ見知らぬ誰かが通り過ぎただけかもしれない。それでも、一度視線を向けることで、何か変わってしまうことだけは分かっていた。その変化が幸福なものか、あるいは失望を伴うものかは分からない。だが、見なかった場合とは、決定的に違う世界になる。


 見ないまま進めば、ここでの時間は平穏なまま閉じることができる。何も起きなかった一日として、そのまま翌日に繋げることもできる。その選択は容易で、最も分かりやすい逃げ道だ。


 それなのに、誰かがすぐ近くにいるという感覚が、背中に張り付いて離れない。その感覚を強引に振り切って進むこともできるはずなのに、どうしても無視しきれなかった。


 その”誰か?”が誰なのか、確かなことはまだ何も分からない。


 分からないままでいれば、責任ある選択をせずに済むはずだ。だが、分からないままにしておくこと自体が、すでにひとつの不誠実な選び方になっていることにも気づいてしまう。


 足は、まだ動かない。

 ただ、振り返るための勇気だけが、どうしても見つからないままだった。

ブックマーク、評価をお願い致します。

レビュー、感想等もお待ちしております。

誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ