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<全31ep> 神戸、八社のあいだで  作者: 第三ひよこ丸


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第26話 目を逸らせないままで

 背後にわずかな気配を感じたとき。それは耳で拾えるほど確かな音ではなく、ただ、そこにあるはずの空気がほんの少し震えたような、そんな心細い感覚だった。

 

 この微かな変化は、外へ出ようとしていた僕の足取りを鈍らせるには十分で、意識の中でまたたく間に存在感を増していく。


 このまま歩き去れば、それで終わる。それは分かっている。ここで立ち止まる明確な理由なんて、本当はどこにもない。しかし、振り返らないという選択肢を選んでしまえば、この違和感ごと、何か大切なものを切り離してしまう気がした。無視するには、あまりに無理があるように思えてならなかった。


 視線を前に向けたまま、身体の向きをゆっくりとずらす。

 視界の端に、ひとつの人影が入り込んできた。この段階ではまだ、それが誰なのかは分からない。『そこに誰かが立っている』という認識だけが、先に立つ。


 あと一歩踏み込めば、その正体を確かめられる距離。それなのに一歩がすぐに出ないのは、明らかにしてしまえば、これまで曖昧だったものが形を持ってしまうからだ。その結果をすべて受け止めなければならない。その覚悟ができていないまま、ただ時間だけが過ぎていく。


 それでも、背を向けたままでいることはできなかった。

 視線を横へ滑らせたとき、そこにいたのが彼女だと気づく。認識するだけなら一瞬で済むはずだった。なのに、会っていなかった時間が重なり合って、ただ『そこにいた』という事実だけでは、どうしても終わらせてくれなかった。


 目が合ってからも、どちらもすぐには動けず、その場に縫い止められたような時間が生まれる。

 

 彼女の表情には、最初に浮かんだ驚きが色濃く残っていた。それは消えることなく、わずかな迷いを含んだ形へと移ろっていく。何かを言おうとしているのは分かった。だが、その言葉がそのまま口をついて出てこないようだった。

 

 唇がわずかに動き、言葉になりかけては止まる。そのあと、呼吸がひとつだけ深く変わった。その小さな変化が、声を出すかどうかの境目のように思えた。


「……えっ!?」


 短い一言だった。それだけで十分すぎるほど意味を持っていた。驚きと確認が混ざり合い、そのどちらにも振り切れないような響き。その中には、隠しきれない戸惑いも含まれていた。


 僕も何か返すべきだと分かってはいる。だが、すぐには言葉が見つからない。短く返せば足りる気もするが、そんな素っ気なさで済ませていいのかが分からない。かといって言葉を足せば、それが余計な飾りに感じられてしまう。

 

 選ぼうとするたびに、どの言葉も正解ではない気がして、結局何も言えないまま時間が流れていく。


 不意に、彼女がほんの少しだけ息を吐いた。その動きは小さかったが、強張っていた肩の力が抜けるのが伝わってきて、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだのが分かった。


「……来てたんですね」


 続けてこぼれた言葉は、無理に平穏を装っているようだった。その奥にはわずかな震えが残っている。その揺れは消しきれないもので、ここ数日の空白がそのまま含まれているように聞こえた。


「もう来ないと思ってました。あの日、あんなふうに別れてから……」


 一度言葉を区切ってから続いたその一言は、胸に刺さる重みを持っていた。単なる状況の説明としては軽すぎず、かといって感情として強すぎるわけでもない。そのちょうど真ん中に留まるような、不思議な響きだった。


 その一言を受けて、ようやく僕の口からも言葉が出た。


「……来ました。ここに来ないことが、自分の中でどうしても収まりが悪かったんです」


 短く、正直に返す。説明を足せば足すほど、今のこの場所に、どんな理屈も強すぎる気がして。


「この前、来なかった……ですよね? 私、ずっと……」


 続いた彼女の言葉は静かで、責めるようなトーンではなかった。しかし、ただの事実確認以上の響きを含んでいる。その奥にあるものを考える前に、その問いがここに置かれたこと自体が、これまでとは何かが違うことを示していた。


「……そうですね。ちょっと、自分でもどうしたいのか、分からなくなっていました」


 一言だけ付け足す。十分な説明ではない。ただ、これ以上言葉を重ねれば、この場に余計な意味を与えてしまう気がして、そのままにした。

 

 彼女は僕の返答を聞いて、すぐには何も言わなかった。考えているというよりは、受け取った答えをどう扱えばいいのか、決めかねているようだった。


「……そう、なんですね。私も、同じだったかもしれません」


 ゆっくりと言葉が返る。理解を示しているようでもあり、しかし完全に納得しているわけでもない。そんな、揺れるような響き。


 そこで再び、わずかな間が生まれた。その間は、さっきまでのような何もない状態ではない。すでに交わされた言葉をどう繋いでいくか、その行方を測るための時間としてそこにあった。


 その中で、僕はふと気づく。ここ数日、足を運ばなかったことが、単なる行動ではなくなっていること。

 

 そして、その事実を彼女も同じように受け止めているということ。

 その認識が浮かんだとき、胸の奥に小さな変化が生まれた。

 理由はうまく言えない。ただ、そのまま流してしまうことはできない重みが、確かにそこにはあった。


 彼女がもう一度、まっすぐに僕を見上げる。その視線は最初よりも少しだけ落ち着いていたが、その分、逃げずに僕へと向けられているのが分かった。


「……また、来ますか? 明日も、その次も」


 その一言は、軽い問いかけの形をしていた。だが、そのままでは済まない大切なものを含んでいる。その問いにどう答えるかで、これからの二人の形が変わる。それを、僕たちはお互いに分かっていた。

 

 すぐに答えることはできるはずだ。しかし、その答えが持つ意味の重さが先に意識されて、言葉として出すまでに、ほんの少しの時間が必要だった。


「……来ると思います。何も決めないままに、ただ会うだけの日々は、もう終わったんだと思います。だから……、次は、理由を持って来たい」


 そう返す。断定を避けたのは、強く言い切ることにまだ迷いがあったからだ。それでも、来るという意志だけは否定せず、その場所に置いた。

 

 彼女は僕の答えを聞いて、小さく息を吐いた。その動きはほんの僅かだったが、そこに含まれた安堵が、そのまま伝わってきた。


「……分かりました。私も、ちゃんと考えます。……次に、どんな顔をしてここにいればいいのかを」


 短く、彼女はそう言った。取り繕った言葉だったが、そこにはやり取りをそのまま受け止め、ひとつの区切りをつけたような響きが残っていた。


 そのあと、僕たちはどちらも動かなかった。

 ただ、さっきまでと違うのは、もうこのまま何もなかった頃には戻れない。そのことだけが、はっきりとした確信として残っていた。

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