第24話 決意の綻び ~彼女視点~
『今日は行かない』と、朝の時点では心に決めていた。
その決定は、決して一時的な勢いによるものではない。ここ数日、彼が姿を見せないという事実をありのままに受け止めた結果として、ごく自然に導き出された結論だった。
これまで、約束を交わしたわけでもなく、互いに示し合わせていたわけでもない。ただ同じ時間に同じ場所へ足を運び、結果として重なり合っていただけ。その偶然が途切れてしまった以上、無理に繋ぎ止める理由など、どこにも見当たらない。
むしろ、途絶えた流れをそのままにしておく方が、これからの関係としては無理がなく、余計な意味を持たせずに済むように思えた。
その考えは、少なくとも午前中の私の中では、過不足なく綺麗に収まっていたはずだった。どこかに引っかかる部分があるわけでもなく、別の選択肢と比べて迷う余地があるとも感じられない。ただ一つの整った形として、受け入れられていた。
しかし、仕事を始めてしばらく経った頃から、その盤石だったはずの決意が、わずかに歪み始めていることに気づいてしまう。
手元の書類に目を落とし、数字を追いながら処理を進めていく。作業そのものに、目に見える滞りはない。内容を取り違えているわけでもなければ、手順を間違えているわけでもなかった。
しかし、一つ一つの確認を積み上げていく流れの中に、ごく僅かな淀みが混ざるようになる。その遅れがどこから生じているのかを特定する前に、次の作業へと移らなければならないため、正体の分からない違和感だけが胸の奥に溜まっていく。
その違和感は、無視できるほど軽くはないが、作業の手を止めるほど強くもない。その中途半端な位置付けが、かえって意識の端にこびりついて離れなかった。
何に引っかかっているのか、深く考えればすぐに答えは出る。ただ、その”答え”に触れることを、私はどこかで意図的に避けている。
もし認めてしまえば、朝に下した決断が、そのままではいられなくなる予感があったからだ。その予感を確かめないままにしておくことで、かろうじて決定の形だけを保とうとしていた。
そのせいで、意識は仕事に向けられているようでいて、完全には集中しきれていない。どこか宙に浮いたような、不確かな感覚のまま同じ動きを繰り返す。
書類を確認し終えたあとも、本当に正しく処理できていたのか不安が残り、つい同じ箇所に視線を戻す回数が増えてしまう。時間はいつもと同じように刻まれているはず。それなのに、時の進み方だけがわずかに不安定に、歪んで感じられた。
昼休みが近づくにつれて、その不安定さは少しずつ具体的な輪郭を持ち始める。
これまでは時間になれば自然に席を立ち、何の迷いもなく外へ出ていた。しかし今日は、その直前で一度だけ動きが止まる。
行かないと決めているのだから、そのまま席に残ればいい。選択はすでに終わっているはず。それなのに、その確定したはずの判断を、何度もあらためて確認し直さなければならないような強迫観念に駆られていた。
弁当を取り出し、蓋を開けて一口運んでみる。味も温度も普段と変わらない。だが、箸を進めるリズムの中にわずかな間が入り、そのたびに意識が別の方向へ引っ張られそうになる。その思考の先を最後まで辿れば、自分の本音は鮮明になるはずだった。でも、そこまで踏み込んでしまえば朝の決定が崩れてしまう。私はその手前で、必死に踏み止まっていた。
その結果、結論を先送りにした状態だけが残り、同じような逡巡が何度も繰り返される。食事を終え、後片付けを済ませたあとも、胸のざわつきは消えないまま続いていた。
席に残る。ここで動かなければ、今日は行かないという選択がそのまま完結する。
それなのに、座ったままでいることが自らの意志によるものではなく、単に決めきれていない状態を引き延ばしているだけのように感じられてならない。
その違いは、他人から見れば分からない程度のものだろう。だが、自分の中では明確に区別できる。その曖昧な空白を抱えたままでいることに、耐えがたい居心地の悪さが募っていった。
――行かない――、と決めたはず。
その言葉を、頭の中で何度もなぞる。
それだけで完結するはずなのに、その後に何かが続きそうになる感覚があり、その先をあえて言葉にしないまま、もう一度だけ同じ言葉を反芻する。
――……行かない――
けれど、その言葉は最初に抱いたときほどの強さを持っていなかった。どこか表面だけを撫でているような、頼りない響き。その軽さに気づいた瞬間、言葉だけでは埋められない欠落があるのではないかという疑いが生まれ、それを打ち消そうとして、さらに頑なに同じ言葉を重ねてしまう。
その不毛な繰り返しに耐えきれなくなり、私はゆっくりと立ち上がった。
行かないと決めていたはずの選択が、その瞬間に形を失って崩れ去る。あらためて決め直したわけではない。ただ、もう維持することができなかった。
外へ出ると、通りの喧騒がこれまでと同じように私を包み込む。人の流れに乗ることで、歩くリズムが自然に整っていく。
ただ、そのまま進むべき方向をすぐには決められず、歩調をわずかに緩める。自分が本当はどちらへ向かおうとしているのかを、確かめるように歩き続けた。
ここで別の道を選べば、今日は完全に終わる。その選び方は間違っていない。むしろ、自然な流れに沿っているとも言える。それなのに、足がどうしてもそちらへ踏み切らない。ほんの少し意識を向けて踏み出せば済む程度の差。それなのに、その一歩をどうしても選び取ることができなかった。
なぜ選びきれないのか。その問いに対して最初に浮かんだのは、『確かめたい』という理由だった。
しかし、それだけでは不十分だともすぐに気づく。来ているかどうかを知るだけであれば、連絡を取るという手段もあるはずだ。わざわざ足を運ぶ必要はない以上、その理由だけでここまで突き動かされているとは考えにくい。
その奥底にあるものをさらに辿っていくと、これまでずっと曖昧に、見ないふりをしてきた感覚に突き当たった。
――寂しい――
そんな、ごく単純な感情だった。
それは決して大きなものではなく、気づかないふりをして過ごすこともできていたはずのもの。それがここにきて、ようやく確かな形を持って浮上してきたのだ。その存在を認めてしまえば、これまで説明がつかなかった心の揺れが、一度に繋がっていく。それでも、そのあまりの純粋さをそのまま受け入れることに、まだわずかな抵抗が残っていた。
それでも、足は止まらない。
気けば私は、神社の方向へ進んでいる。
自覚した瞬間から、歩幅は次第に大きく、足早になっていく。
決め直したわけではない。ただ、頭で決めたことよりも、心に残っていた感覚の方が、わずかに強かっただけ。その些細な重みの違いが、進む方向を変えてしまった。
境内に入ると、逸っていた歩く速度が自然に落ちる。ここに来た理由をあらためて整理しようとしたが、完全に言葉にする前に、その必要性自体が薄れていくのを感じた。
参道を進む。視線はまっすぐ前に向けながらも、周囲の気配を拾う感覚が研ぎ澄まされていく。自分が今、何を求めているのかはもう分かっていた。
お賽銭箱の前で足を止め、小銭を落とし、静かに手を合わせる。一連の動作を終えたあとも、すぐには動き出さずにその場に留まった。
確かめるために、私はここに来ている。
その自覚が、ようやく確かな言葉になる。
ゆっくりと顔を上げる。
視線を、恐る恐る動かしていく。
そこで、ふいに、私の世界が止まった。
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