第23話 昨日までの日常の出口
玄関で靴を履いたまま、僕はしばらく動けずにいた。
足先はきちんと収まっているし、かかとも浮いていない。紐も完璧に結び終えている。それなのに、床を踏み締めているという感覚だけがどこか心許なかった。体重を前に預ければそのまま外へ出られるはずの距離。しかし、その一歩へと繋がる心の動きだけが見つからないまま、同じ位置に留まり続けている。
視線を上げれば扉があり、手を伸ばせばすぐに触れられる。その事実は変わらない。ただ、扉までの数歩の隔たりが、今の自分には思っている以上に遠く、険しいものに感じられていた。
外へ出るべき時間は、もうとっくに過ぎている。時計を見なくても肌身で分かってしまうくらいには、僕はこれまでと同じ流れの中にいた。窓から差し込む光の角度も、通りを流れていく車の走行音が重なり合う密度も、ここ数日とほとんど変わらない。世界は変わらずそこにあり、昨日までと同じように受け取ることができている。それなのに、その循環の中に自分自身が入っていく段階だけが、どうしても上手く繋がらないのだ。
理由を探そうとすれば、いくつか心当たりはある。
昨日のこと、その前のこと。ここまで続いてきた穏やかな時間の中で、澱のように少しずつ生じていた違和感。それらが無関係ではないことは、痛いほど理解していた。
それでも、そのどれか一つだけを取り出して『これが原因だ』と断定できるほど明快なものではない。むしろ複数の小さな迷いが重なり合って、全体として僕の足を止める、目に見えない抵抗になっている。
外へ出ること自体を拒んでいるわけではない。歩くことが億劫なわけでも、どこかへ行くことに疲れ果てているわけでもない。ただ、その先にある時間へ足を踏み入れることに対して、これまでにない強固な引っかかりを覚えているのだ。その正体を言葉にしようとすればするほど、核心は指の間をすり抜け、思考だけがとりとめもなく広がっていく。
このまま外へ出れば、僕はいつも通りの道を歩くことになる。
活気のある商店街を抜け、聞き慣れた音の鳴る信号を渡り、あの神社へ向かう。昼のあの時間に境内へ辿り着き、そして彼女に会う。その流れは何度も繰り返してきたものであり、意識せずとも身体が覚えているはずの所作。そこに迷う余地など、本来はあるはずもなかった。にもかかわらず、その「分かっている」という確信が、今日は逆に僕の動きを鈍らせている。
行くか、行かないか。
それだけの選択でしかないはずなのに、その間に横たわるものは、単純な二択で処理できるほど軽くはない。どちらを選んだとしても、それがただの一回きりの行動では終わらないことを、僕はどこかで悟ってしまっている。だからこそ、この選択を軽く扱うことがどうしてもできなかった。
――行けば、彼女に会える――
そのこと自体は、これまでと何一つ変わらないはずだった。顔を合わせて、他愛のない言葉を交わして、並んで歩く。それだけの時間。特別なことなんて、何一つしていない。むしろ、特別でない日常だったからこそ続いていたはずで、その時間に理由を求める必要なんてなかったはずだ。
しかし、その光景を思い浮かべたとき、これまでは曖昧だった時間の輪郭が、以前よりもしっかりと浮き彫りになってくる。
交わした言葉そのものよりも、その合間に流れていた沈黙や、歩く速度が自然に揃っていく感覚、あるいは視線をどこに向けるでもなく同じ方向を見つめていた時間。それらの方が、印象として鮮烈に胸に残っていることに気づかされる。これまでは意識するほどのものではなかった。それなのに、今思い返すと、その時間の中で自分が感じていたものの中心に近い場所に、それらは静かに鎮座していたように思える。
あの中にいることを、僕はただの偶然として受け取っていたのか。それとも、無意識のうちに選び続けていたのか。その境界線が、いまになってひどく曖昧に揺れ動く。
――会いたい――
不意に、そんな言葉が意識の底から浮上してくる。
それは強く背中を押すようなものではなく、気づけばそこに佇んでいた、という程度の静かなものだった。だが、その一言で片付けてしまうには、ここまでの時間の積み重ねが、あまりにも自然で、重すぎた。だからこそ、簡単に扱うことができないのだ。
ただ会うというだけではない。その時間の中に浸ること自体を、僕はどこかで切実に望んでいたのではないか。そんな考えが、ゆっくりと、しかし確実に形を成し始める。
そう自覚した瞬間、これまで理由を持たずに続いていたはずの行動に、後付けの意味が次々と与えられていく。
その意味を認めてしまえば、ここに来る理由は一つの明確な形を持つことになるだろう。
そしてその形は、おそらく自分がこれまでずっと、曖昧なままにしておこうと腐心していたものと、ほとんど同じものになる。
だからこそ、その一言で全てを決めてしまうことに対して、僕の中にはまだ微かな抵抗があった。
行かなければ、今日は会わないままで終わる。それはそれで一つの完結した結果であり、世界が壊れるような出来事が起こるわけではない。それでも、その一回が、これまで築いてきた時間の中で思っている以上に大きな空白を占めてしまうことが分かっていた。一度途切れたあとで、また同じように元へ戻れるのか。そのとき、以前と同じ距離のままでいられるのか。その保証は、どこにもないのだ。
どちらを選んでも、これまで通りにはいられない。
その事実から、僕はもう目を逸らすことができなかった。
彼女の声が耳の奥で蘇る。
『どうしてここに来ているのかを、しっかりと考えたほうがいいのかもしれない』
そう語っていたときの静かな声や、言葉を口にするまでのわずかな沈黙、言い終えたあとに漂っていた空気の重なり方。細かい欠片までが、そのまま鮮明に脳裏をよぎる。
あのときは、その言葉をそのまま受け取ったつもりでいたし、自分も同じように考えていると信じていた。しかしれど、いまこうして実際に選択を迫られると、その言葉が持っていた本当の重さが、当時とは違った感触で伝わってくる。
理由を決めるということは、そのまま関係の形を決定することに近い。曖昧なままでいられたからこそ成立していた平穏が、白日の下にさらした瞬間に別のものに変わる可能性を含んでいる。その変化を受け入れるのか、それとも回避するのか。そのどちらを選ぶのかを、自分の意志で決める必要があるのだ。
ポケットの中でスマートフォンに触れてみる。連絡を取れば、今日どうするのかを確認することはできるはずだ。その一言で、この迷いの一部は軽くなるかもしれない。それでも画面を開くことができないのは、言葉にしてしまえば、それがそのまま逃げ場のない”答え”になってしまうような気がしたからだ。その前に、自分自身の中で決着をつけておかねばならないことがある。そう感じていた。
どちらにしても、このまま曖昧な状態で外へ出ることも、何も決めないままここに留まり続けることも、どちらも中途半端な逃げにしかならない。
扉の前に立ち尽くしたまま、僕はもう一度だけ、自分に問いかける。
行くか、行かないか。
そのどちらかを選ぶ。ただそれだけでいいはずなのに、一歩が決められないまま時間だけが刻一刻と過ぎていく。外の喧騒が少しずつ輪郭を強めていく中で、このまま扉を開ければその流れの中に取り込まれる。逆にここに留まれば、今日はどこにも行かないまま一日が終わる。分かっているのに、そのどちらにも踏み出せない膠着状態が続いていた。
ただ、この迷いの霧の中で、ひとつだけ確信していることがあった。
(僕は彼女に……、会いたいと思っている)
その事実を認めてしまえば、行く理由としては十分すぎる。なのに、その一言で全てを決めてしまうことに対して、僕の心はまだどこかで、身を固くして躊躇っている。
それでも、その想いを無視したままでは、ここから先へ一歩も進めないことも、同時に理解していた。
このままではいられない。
もうすぐ、僕はどちらかを選ぶことになるだろう。
その、切断される直前の不安定な位置に、自分が立っている。その事実だけが、逃げ場のない切実さを持って迫っていた。
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