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<全31ep> 神戸、八社のあいだで  作者: 第三ひよこ丸


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22/31

第22話 終わりの予感

 あの日、ポートタワーから戻って以来、僕の足は玄関先で一度止まるようになった。


 壁に掛けられた時計の針はいつもと同じ場所を指し、窓から射す陽の角度も、通りを流れていく車の走行音が重なり合う密度も、昨日までと何一つ変わっていない。いつも通りに靴を履き、いつも通りに重い鉄の扉を押し開ければいい。そこに不自然な点なんて何一つないはずなのに、いざ外へ踏み出そうとすると、心に小さな棘が刺さる。

 扉のノブにかけた手に、いつも以上の重みを感じる。冷たい金属の感触が、今の自分の迷いをそのまま映し出しているようだった。


 『行かない』という選択肢が、まるで実体を持ったかのように、急に鮮明な輪郭を持ち始めていた。


 行かなかったところで、誰に責められるわけでもない。足を止めるほどの決定的な理由や、何かが致命的に壊れたわけでもない。ただ、何も考えずに足を運んでいたこれまでの当たり前という慣性が、急にどこか遠い国の、自分とは無関係な出来事のように思えてしまうのだ。

 

 結局、自分でも正体の掴めない曖昧さを抱えたまま外へ出ても、アスファルトを蹴る足取りはどこか自分のものではないように心許なく、浮き足立っていた。


 歩き出し、いつも通りの街並みを通り過ぎながら、自分がなぜあそこへ向かっているのかを、改めて自分自身に問うてみる。しかし、納得のいく答えが出る前に思考は形を失い、春の穏やかな日差しの中に霧散してしまう。ただ、そんな青臭い自問自答を自分に投げかけること自体が、かつてないほど大きな変化であることだけは、認めざるを得なかった。

 

 視界に入る風景の一つひとつが、まるで初めて見る場所のように、奇妙な違和感を持って迫ってくる。


 境内の入り口を通り抜けると、肌に触れる空気の密度が一段階変わる。雑踏の音は膜を隔てたかのように遠巻きになり、無意識に歩幅が緩んだ。いつもなら、この境界を越える瞬間に心地よい平穏を感じていたはずなのに、今の自分はどこか冷めた目で見つめている。

 

 その先に、彼女がいた。

 視線が、磁石に引き寄せられるように合う。


 ほんの一瞬だけ、彼女の口元がやわらかな弧を描くが、すぐに元の静かな無表情へと戻る。それ自体は、この数日間、幾度となく繰り返されてきた日常の断片だ。それなのに、その間にある数メートルの距離が、以前よりもずっと心細く、途方もなく遠いものに感じられた。

 

 近づけば近づくほど、その歩みが重くなる。


 どちらからともなく隣に並び、歩き出す。だが、何を話せばいいのか、その最初の欠片が見つからない。石畳を叩く二つの足音だけが、まるで秒針のように一定の間隔で虚しく響き、沈黙がこれまでよりも少しだけ、長く、重く、僕たちの間に横たわる。

 

 時折、風が木々を揺らす音だけが、不自然なほど大きく聞こえた。

 やがて、彼女が小さく唇を動かした。


「……あの日、ポートタワーに行ってから、なんだかずっと落ち着かなくて」


 それは、周囲の喧騒に紛れて消えてしまいそうなほど低い、独り言のような声だった。


「ただここに来て、顔を合わせて、少しの間だけ同じ時間を過ごす。それだけで十分だったはずなのに。今はそれだけじゃ、何かが足りない気がしてしまうんです。こうして隣を歩いていること自体が、急に……自分でもよく分からないものに変わってしまったみたいで」


 彼女はそこで一度言葉を切り、深く、重い吐息を漏らす。視線は行き先を捉えることなく、自分の足元の石畳に向けられたままだ。その横顔は、春の光に透けてしまいそうなほど、どこか儚げに見えた。


「ここに来ること自体が嫌になったわけじゃないんです。でも、どうして自分はここにいるんだろうって、一度考え始めたら……、そのまま昨日と同じことを繰り返すのが、怖くなってしまったのかもしれません。自分が、自分じゃない何かに流されているみたいで」


 その言葉が、僕の胸の奥にある同じ形の欠落にぴたりと重なった。まるで、パズルの最後のピースが、望まない場所に完璧にはまってしまったかのような、忌々しい一致だった。

 

 僕は彼女の言葉に、どう答えるべきか迷った。安易な慰めも、無責任な肯定も、今のこの空気の中では場違いな気がして。


「僕も、似たようなことを考えていました。ここに来れば、あなたに会える。それをただの日常として受け入れていただけだったけど。一度その外側の景色を知ってしまうと、もう、元には戻れないというか。今のこの状況が、薄い氷の上に立っているような危うさに思えてくるんです」


 言葉を紡げば紡ぐほど、自分たちがどれほど不安定な足場に立っているのかを突きつけられるようだった。声が、自分の耳にも少しだけ震えて聞こえる。


「会うことに負担を感じているわけじゃない。でも、この不透明な関係をずっと『当たり前の箱』に閉じ込めて、目を背け続けることに、どこかで後ろめたさを感じているのかもしれません」


 彼女は小さく深く、自らの感情を噛み締めるようにうなずいた。その首筋に落ちた髪が、微かな風に揺れる。


「そう……、それなんだと思います。何を求めているのかも、どこへ向かいたいのかも決めないまま、同じ時間にここに来て、同じように会う。そんな曖昧なままの繰り返しが、今はとても、居心地が悪いんです。自分たちに、嘘をついているような気がして。何も見ないふりをして笑い合うことが、一番不誠実な気がしてしまって」


 再び、長い沈黙が落ちる。以前の沈黙は、言葉がなくても通じ合えるような、温かな余白だった。しかし、今のそれは、残酷なほどに決断を迫る空白としてそこにあった。

 同じ道を進んでいる。同じ目的地へ向かっている。なのに、その場所が持っていたはずの意味だけが、音もなく足元から崩れ去っていくようだった。

 景色が少しずつ滲んでいく。世界そのものが、色を失い始めているような錯覚に陥る。


「……無理をして来る必要はないんだと思います、お互いに。義務で会うような場所でもないはずですから。私たちは、もっと自由であるはずなのに」


 彼女が再び口を開く。その声には、先ほどまでの迷いを強引に振り払うような、微かな、決意が混じっていた。


「でも、これまでと同じ、真っ白な気持ちでここに来ることは、もう私にはできません。次に来るなら、どうしてここに来るのかを、自分の中で定義しなきゃいけないんだって。そう思うんです。そうじゃないなら……一度、来ない日を作るべきなんだと思います。その欠けたところを、ちゃんと自分で引き受けるために。自分が一人で立つ場所を、もう一度見つめ直すために」


 それは、静かだが、あまりに重い宣告のようにも聞こえた。

 理由がなくても、名前がなくても、ただ穏やかに成立していたあの優しい時間は、もう、二度と戻らない場所へと過ぎ去ったのだ。僕たちは、その楽園を自ら後にしようとしている。


 境内の空気は変わらない。一定の歩く速さも、隣から伝わってくる微かな体温も、視界をよぎる木々の影も。

 だが、明日という日の一歩をどう踏み出すのか。その答えを、僕たちはもう、自分に嘘をついて誤魔化すことだけはできなくなっていた。


 胸の奥で、消えかかっていたはずの熾火が、じりじりと、焼けるような熱を帯び始めていた。それは痛みを伴いながらも、自分が確かに『ここ』にいることを、誰よりも鮮明に教えてくれていた。

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