第21話 始まりの場所を書き換えて
今日は平日ではない。通りを歩く人の流れがいつもより緩やかで、店ごとの開き方にもバラつきがある。その光景を見ていれば、わざわざ曜日を確かめる必要もなかった。それでも足は自然と同じ方向へ向いていて、途中で止まる理由も、別の場所へ向かうきっかけも特に見つからなかった。
これまでここに来る理由は、考えるまでもなく決まっていた。彼女の昼休みの間だけ、同じ時間に同じ場所にいる。その短い時間の中で顔を合わせて、少しだけ歩き、言葉を交わし、区切りのところで自然に離れる。終わる位置があらかじめ見えているからこそ、そこまでの流れも無理なく続いていた。
しかし今日は、その前提がない。時間の制約もなく、ここに来る必然性もない。それでも来ているということは、理由がまったくないわけではないのだろう。ただ、それを言葉にできるほど整理されているわけでもなかった。来ないままにしておくほうが、あとに何かを引きずるような気がしたから、そのまま足を運んだだけとも言える。
境内に入ると、人の数はいつもより多い。騒がしさというよりは、それぞれが別の目的でここに来ていることが重なり合っているような感覚。同じ流れの中にいるというよりも、バラバラの時間が同じ場所に置かれているように見える。その中に、彼女の姿があった。
一度、目に入ったはず。しかし、そのまま通り過ぎかけて、少し遅れてから視線を戻して確認する。そのわずかな遅れが、自分がここに来るまで抱えていた曖昧さと重なっている気がした。彼女もこちらに気づき、目が合う。その瞬間だけ表情がやわらいでから、すぐに元の落ち着いたものに戻る。その変化が小さいからこそ、かえって印象に深く刻まれた。
「今日はお休みですよね。ここで会うことはないと思っていたんですけど……来てしまいました。理由をうまく説明できるわけではないんです。でも、そのままにしておくのも落ち着かなくて。来ないまま終わらせてしまうと、そのこと自体がずっと引っかかる気がして、それなら一度来てしまったほうがいいと思ったんです」
普段よりも少しだけ柔らかい言い方で、言葉の中に迷いがそのまま含まれている。きれいに取り繕おうとしているわけではなく、考えていることをそのまま外に出しているような話し方だった。
「自分も同じです。来る必要はないはずなんです。ただ、来ないままにしておくと、そのことだけが変に残りそうで。それなら一度来てしまったほうがいいと思いました」
そう返すと、それ以上説明を重ねる必要はないように感じられた。
並んで歩き出す。これまでのように時間に追われていないせいか、歩く速さが自然に落ちる。どこまで行くのかも決めていない。止まる理由もないまま、同じ方向へ進んでいるという状態だけが続いていた。その曖昧さが不安になるわけではなく、むしろこれまでよりも少しだけ余白があるように感じられる。
しばらく歩いたあとで、彼女がゆっくりと口を開く。
「最初に会った場所のことを、さっきから少し考えていました。あのときは、ただその場で終わると思っていたのに。そのあとにこうして続いていることを含めて、あの場所を思い出すようになっていて。始まりの場所は変わっていないはずなのに、その意味だけが少しずつ変わっている気がします。そのときだけのものだったはずが、今はそれだけじゃなくなっていて、そのあとがある前提で最初を見ている感じがして」
その言葉を聞いたとき、自然にあのときの光景が浮かぶ。
最初に会ったのは、神戸ポートタワーだった。ただ同じ場所にいて、短く言葉を交わし、そのまま別れてもおかしくなかった流れ。そこで、ほんの少しだけ会話が続いた。その延長のように彼女が「じゃあ、一宮ですね」と言い、断る理由もないまま、僕はその提案に乗った。
そのときは、それが特別な選択だとは思っていなかった。どちらかが決めたというよりも、その場の流れが一歩だけ前に進んだような感覚。それでも、その一歩が、そのあとに続いている。
「ここからだと、それほど遠くないですよね。時間も今日は気にしなくていいので、その……、もしよければ、もう一度行ってみませんか。最初に会った場所に戻ってみたら、今感じていることが少しだけ明快になる気がして。ただ思い出すだけじゃなくて、今の状態で見たらどうなるのかを確かめたいと思ったんです」
言い切るまでにわずかな間があり、その中で言葉を慎重に選んでいるのが分かる。それでも、その踏み出し方はこれまでよりも少しだけ意志がこもっていた。
「いいと思います。ちょうどその話をしていたところですし、戻ってみたら何か分かるかもしれません」
そう答えると、彼女は安心したように小さくうなずいた。
移動の間、会話はそれほど多くない。無理に言葉をつなげようとすることもなく、沈黙を避けようとする気配もない。ただ同じ方向へ歩いているという状態だけが続いていた。その間に、視界の先に塔が見えてくるにつれて、あのときの記憶と今の景色が少しずつ重なっていく。
入り口の前で立ち止まる。同じ場所のはず。しかし、距離の感じ方が違う。あのときは初めてで、ここで何が起こるか分からなかった。今はすでに一度通っている場所として見えている。
「ここでしたよね。最初に会ったのは。このあたりで立ち止まって、少しだけ話して、そのまま終わると思っていたのに。あのときはそのあとに続くなんて考えていませんでしたし、今みたいにこうして一緒に来ることも想像していませんでした。だから、同じ場所にいるはずなのに、あのときとは違う場所に来ているような感じもして……。少し不思議な気がします」
その言葉を聞きながら、あのときの自分の状態を思い出す。続くかどうかも分からない中で、ただその場の流れに乗っただけだった。
「そうですね。たしかこのあたりだったと思います。そのときはその場で終わる可能性のほうが高かったはずなのに、今はその続きの中にいる感じがします。同じ場所に来ているはずでも、その前後が違うだけで見え方が変わるというのは、こういうことなのかもしれません」
塔の中に入り、上へ向かう。その動きはあのときと同じはず。しかし、その間の時間の感じ方が少し違う。沈黙が長くなっているわけではない。言葉を急ぐ必要がないまま、時間だけがゆっくりと進んでいる。
展望台に出る。視界が一気に開けた。
街の形は変わらない。だが、それを見ている自分たちの現在地が、前とは違っていることが分かる。
「この景色も覚えています。そのときは特に何も考えていなかったんですけど、今はここで見たことも、そのまま残る気がします。何か特別なことをしているわけではないのに、こうして同じ場所に来ていること自体が、あとで思い出すときに一緒に出てくるような気がして……。それが少しだけ不思議で、でも嫌な感じではないんです」
その言葉を聞きながら、ポケットの中の小銭に触れる。指先に伝わる感触が、いつもより鮮明に感じられた。
取り出してもただの硬貨で、特別な意味を持つものではない。それでも、それを持っているという事実が、ここまでの時間と繋がっているように感じられる。
「残ると思います。そのときは意識していなくても、あとで思い出すときには、その前後も一緒に出てくるでしょうし。その中にこういう時間も含まれていると思います。最初に会った場所も、そのときだけのものじゃなくて、そのあとに続いた分も含めて思い出すことになる。だから同じ場所に戻ってきたときに、その違いを実感するのは自然なことだと思います」
そう言うと、彼女はしばらく何も言わず、外の景色を見つめていた。その横顔には、思考の跡がそのまま表れている。
「そうなると、始まりの場所も、そのままではいられないですね。変わっているのは場所じゃなくて、自分たちのほうなんだと思いますけど。それでも、同じところに戻ってきたときに、その違いが分かるということは、ここまでの時間がちゃんと繋がっているということなのかもしれません」
その言葉の中に、これまでよりもしっかりとした想いが宿っているようだった。
同じ場所に立っている。
同じ景色を見ている。
それでも、最初のときとは違う。あのときは、ここで終わるはずだった。今は、ここに戻ってきている。その違いが、言葉にしなくても伝わってきた。
彼女がこちらを見る。何かを言いかけるように口が動くが、そのまま言葉にはならない。その代わりに、ほんの少しだけ呼吸を整えるような間があった。
その沈黙の中に、言葉にできない想いが含まれている。
最初の場所は変わっていない。しかしれど、その位置付けは、前と同じではなくなっていた。
その確かな変化だけが、静かに胸に残っていた。
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