第20話 歩幅の微熱
外に出るかどうかを迷う時間が、今日は少しだけ長かった。行こうと思えばすぐに動けるはず。しかし、その一歩を決めきれないまま立ち止まっているのは、ここに来れば彼女に会う可能性があると自覚しているからだと、自分でも分かっていた。
数日前までは、そのことを特に意識することもなく、ただ当たり前のように外へ出ていただけだった。それが今は、行けば会うかもしれない、会えばそのまま続いてしまう、という先の形まで考えてしまう。その分だけ動き出しが遅れる。会いたくないわけではない。むしろ、彼女が来ているかどうかは気にかかる。ただ、その気になり方が前とは少し違っていて、確かめに行くこと自体が、何か重大な選択に近い感覚になっていた。
結局、僕は外へ出ることにした。明確な理由があるわけではない。ただ、行かないままにしておくほうが、あとに残る悔いが大きい気がしたからだ。
ここ数日は、この時間になると自然に外へ出ていた。理由を考えるまでもなく、同じように動いて、同じ道を歩き、同じ場所へ向かっていた。それは習慣というほど固まったものではなく、ただ平穏な流れとして続いていただけのものだった。その身軽さがあったからこそ、続いていること自体を疑うこともなかったのだと思う。
しかし、今日は、その流れにそのまま乗ってしまっていいのかを、ほんの一瞬だけ立ち止まって考える。行くか行かないかという単純な話ではない。行ったあとにどうなるのか、という未来まで想像が及んでしまう。そのことが、玄関を出るまでのわずかな時間を、少しだけ長くさせた。
それでも結局、僕は外へ出た。行かないという道を選ぶこともできたはず。それを選ばなかったのは、彼女が来ているかどうかを確かめないままにしておくことに、拭い去れない引っかかりがあったからだと、歩きながら気づいた。
会いたい、と言い切るにはまだ躊躇いがある。それでも、来ているかどうかは気になる。その想いが、これまでよりも少しずつ強くなっていることを、自分でも無視できなくなりつつあった。
境内に入ると、視界の奥に彼女の姿が見えた。すぐに認識できる距離のはず。しかし、一度視線を通り過ぎてから、もう一度戻して再確認する。そのわずかな遅延が、自分の中に残っている空白と重なる。
彼女もこちらに気づき、目が合う。そのとき、ほんの一瞬だけ口元がやわらぐが、すぐに元の表情に戻った。その変化は小さい。しかし、目撃してしまったあとのほうが、強く意識に焼き付いて離れなかった。
「来ていたんですね。今日は少し早めに出られたので、もしかしたら先に着いているかもしれないと思っていたんですけど……。こうして会えると、やっぱり少しホッとします」
彼女はそう言う。落ち着いた口調ではあるが、その中にわずかに混ざる温かさが、これまでと少し違う。
「さっき来ました。時間はいつもとあまり変わらないと思うんですけど、今日は歩きながら少しだけ考え事をしていて、その分遅れたのかもしれません」
そう返しながら、余計な説明を足している自分に気づく。ただ「今来た」と言えばそれで済むはずなのに、そのままにしておくことができずに言葉を重ねてしまった。
並んで歩き出すと、距離の取り方はこれまでと同じ。しかし、その場に漂う空気が以前とはわずかに異なっているように感じる。近づいているわけでも、離れているわけでもない。ただ、互いの位置を強く意識している感覚がある。そのためか、歩幅が一致しそうで一致せず、わずかなズレがそのまま続いていく。
しばらく無言のまま歩く。その沈黙はこれまでもあったはずだ。しかし今は、その中に確かな何かが含まれていることが分かる。何も話していないのに、何もないわけではない。その状態が、自然というよりは、保たれているものとして続いていた。
やがて、彼女が前を見つめたまま話し始める。
「この前、一緒に歩いたときに思ったんです。決めていた通りじゃなくても、そのまま続いていくことがあるんだって。途中で形が変わっても、終わらなければそれでいいのかもしれないとも感じました。ただ……、そのままだと、どこに向かっているのかが分からなくなる気もして。続いていることは確かでも、その意味を見失ったまま進んでいくのは、少しだけ落ち着かないようにも思うんです」
一息で話し終える。その言葉は自らの考えを説明しているようでいて、実際には今感じている戸惑いをそのまま吐露しているようにも聞こえる。
その横顔を見ながら、返す言葉を探す。言いたいことは分かるし、その不安の形も想像できる。しかし、それをそのまま受け取ると、この時間に確定した意味を与えることになる気がした。
「どこに向かうかは、最初から決まっていなくてもいいと思いますよ。続いていること自体に意味があるなら、その場で変わっていく形でもいい気がします。無理に形を決めてしまうと、今度はその枠に合わせることのほうが先に来てしまう気もするので」
言いながら、自分の考えが彼女と同じ場所に立っていないことを自覚する。それでも、その違いを曖昧に濁すよりは、ありのまま出しておくほうがいいと思い、言葉を続けた。
彼女はすぐには返さず、数歩分の時間を使って考えているように見える。そのあとで、ゆっくりと口を開いた。
「そういう考え方も分かります。その場で変わっていくことをそのまま受け入れるのは、とても自然なことだと思います。でも、何も決めないままだと、同じところをグルグル回って進んでいないような気もするんです。その中で何が変わっているのか、自分でも分からなくなることがあると思います。それでも続けることに意味を感じられるならいいんですけど……私はまだ、そこまで割り切って考えることができません」
そこまで言ってから、彼女はほんの少しだけ間を置く。
「……ただ続いているだけでいいとは、今は思えないので」
最後の一言だけが、少しだけ低くなる。その言葉が、今この瞬間を共有している時間そのものに向けられていることが分かる。
同じ場所に来て、同じように並んでいる。それだけで成立しているように見えるこの関係を、そのままでいいと思うかどうか。その温度差が、言葉として表れていた。
「……そうかもしれませんね。続いていることだけで十分だと思っていた部分はありますけど、それがどういうものなのかを考えないままでいると、いつか同じ場所を回っているだけになるのかもしれません」
そう返しながら、自分の言葉がどちらにも寄りきっていないことに気づく。その中途半端な曖昧さが、今の自分の現在地に近いのだろう。
彼女はそれ以上何も言わず、前を向いたまま歩き続ける。その沈黙は重くはないが、これまでよりも確かな中身を持っていた。互いに相手の言葉をそのまま抱えたまま、無理に結論を出そうとせずに進んでいく。
足音が揃いそうで揃わない。そのわずかなズレは、意識すればすぐに合わせられるはず。しかし、どちらもそれをしない。その選び方こそが、今の二人の関係を象徴しているように思えた。
完全に重なることはないが、離れているわけでもない。そのあわいにいることを、僕たちはどちらも理解している。
彼女が一度だけこちらを見る。何かを言いかけるように口元が動くが、言葉にはならず、視線だけが前へ戻った。その小さな動きの中に、言葉にしきれない想いが含まれていることだけが伝わってくる。
さっきよりも、ほんの少しだけ距離が近い気がする。
しかし、その近さがどこまで続くのかは、まだ分からないままだった。
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