第19話 あわいの再会
背後から聞こえた短い声に振り返ったとき、そこに彼女がいること自体はすぐに理解できた。しかし、その距離をどう扱えばいいのかという判断だけが、わずかに遅れる。
見つけたという認識と、その後に続くはずの動きとの間に、ほんのわずかな空白が生まれた。
一瞬で埋まるほどのものではあったものの、埋まる前の心許ない状態が意識に焼き付くことで、これまでと同じではないという感覚が鮮明に立ち上がる。
以前であれば、見つけた時点で自然に流れができていたはずだった。声をかけるか、かけられるか。そのどちらかでやり取りが始まり、どちらが先だったのかを意識することもなく、そのまま同じ時間に入っていけたはずだ。それなのに今は、その最初の一歩がどちらの側にも用意されていないまま、互いに様子を伺うような状態が続いていた。
彼女がこちらへ向かって歩いてくる。その歩き方は普段と変わらないように見えるが、最後の数歩だけがわずかに速く、そのあとで調節するように速度を落とした。
その変化は小さい。ただ、その小ささのまま見逃されずに胸に残る。距離を詰めたいのか、それとも詰めすぎないようにしているのか。そのどちらなのかまでは分からないが、少なくとも何も考えずに動いているわけではないことだけは伝わってきた。
その動きを見ながら、こちらも足を動かすべきかどうかを一瞬だけ迷う。しかし、どちらに寄せるのが正解なのかが決まらないまま、その場に立ち尽くしてしまう。動かないことで距離が確定し、その決まり方が、これまでよりも少しだけ不自然に感じられた。
「……来て……たんですね」
声が届く。落ち着いた調子のはずなのに、言葉の途中にごくわずかな揺れが混じっているようだった。考えてから話しているというよりも、溢れてきたものを必死に抑えながら声にしているような響きで、その一言の中に、数日分の時間がまとめて含まれているように聞こえる。
すぐに返せるはずなのに、その一言に対してどう応じるべきかが定まらず、一拍だけ遅れてしまう。その遅れは短いものだったが、その短さのまま心に残り、これまでとの違いを浮き彫りにした。
「……来ました」
短く返す。その一言で十分なはずだ。ただ、言葉にした後で、その短さだけが少し浮いたように感じた。説明を付け足せば補えるような気もする。だが、どの言葉を選んでも、今のこの場に置くには強すぎる気がして、結局そのまま言葉を飲み込んだ。
彼女は一度だけ視線を外し、すぐに戻す。その動きは小さい。その一瞬の外れ方に、言葉にしきれていない想いが含まれているように見える。視線を戻す速さも、わずかに早い。外したままにしておくには、耐えられない何かがあるようだった。
「……今日、少しだけ時間ができたときに、来ようか迷ったんですけど」
言葉が続く。理由の説明ではなく、その時の心の在りようから話し始めている。その選び方が、これまでと少しだけ違っていた。
「ここ数日、何度か足を運んだんですけど……。でも、来ても、どうせあなたはいないだろうって、どこかで諦めてそのまま戻ることもあったので」
一度区切るものの、終わりきらない。そのまま続けるべきかどうかを測るような、ほんのわずかな間が入る。
「……昨日も、同じくらいの時間に外に出たんです」
彼女は続ける。その言い方は落ち着いているが、その中に含まれている熱が、少しずつ表に漏れ出していく。
「来ているかもしれないと思って、少しだけ周りを探して……」
視線は前に向けたまま、言葉だけが紡がれていく。その内容が、これまでよりも具体的に、生々しくなっていく。
「でも、やっぱりいなかったので、そのまま帰りました」
淡々とした言い方のまま、その中身が重く響く。その重さは決して暴力的なものではない。ただ、完全に流してしまうにはあまりに切実で、そのまま僕の胸に留まった。
ほんのわずかに間が空く。言葉を探しているというよりは、ここまでさらけ出してしまったものを、このまま続けていいのかを自問しているような時間に見えた。
「……いないと、思っていたので」
最後に小さく付け足される。その一言は、それまでの言葉よりも短く、形としては脆い。それだけに、余計な飾りを含まずに心へ届く。抑えていた想いが、そのままこぼれ落ちてしまったような響きだった。
ここ数日の時間が、そのままこの場に持ち込まれている。彼女の中で、僕が来なかったという事実が、決して過去のものとして流れていなかったことが痛いほど分かった。
それに対して、何を返すべきなのかがすぐには決まらない。言葉を選べば何かは成立するはずだ。しかし、そのどれもが今の彼女に対しては不躾なほど強く感じられる。
「そうだったんですね」
結局、それだけしか返せなかった。それ以上踏み込めば、彼女が差し出してきた感情を決定づけてしまうことになる。その実態が掴めないまま、僕は今の位置を保つしかなかった。
彼女はほんの少しだけ息を吐く。その動きは小さいが、その中に含まれている力の抜け方が、よく分かった。張り詰めていた糸を少しだけ緩めたような、そんな変化だ。
「……今日は、来ていてよかったです」
一度そう口にする。その言葉は簡潔で、一見すると淀みないものだった。しかし、そのままでは収まりきらないことに気づいたように、彼女はすぐに言葉を重ねる。
「いえ、その……よかったという言い方だと少し違うかもしれないんですけど」
言い直す。言葉を尽くそうとしているのに、完全にはまとまらない。その未完成な形のまま、言葉が置かれる。
「普通に、会えたので」
補足のように続けるが、それでもまだ足りていない。その不足を埋めるために、さらに言葉が続く。
「……来ていないと思っていたので」
最後に、小さく付け足される。その一言だけが、それまでの言葉よりも少しだけ直接的で、心の奥底が覗いた気がした。
彼女はそこで言葉を止める。これ以上続けることもできるはずだが、どこまで踏み込んでいいのかを測るように、沈黙を選んだ。
沈黙が落ちる。気まずさがあるわけではない。ただ、これまでと同じ沈黙ではなかった。何もないから続いているのではなく、何かが満ちきらないまま、そこにあるのだ。
他の参拝者の邪魔にならないよう、並んで歩き出す。これまでと同じように、並ぶでもなく、離れるでもない距離を保つ。その位置関係は変わっていないはずだ。それなのに、足音が一致するまでに少しだけ時間がかかった。一度重なりかけて、わずかにずれ、そのずれを直そうとするほどでもないまま続いていく。
合わせようとしているわけではないのに、完全には重ならない。もどかしい停滞がそこにある。
歩きながら、彼女がさっき言った言葉が、そのまま意識に残っていることに気づく。『いないと思っていた』という一言は、ただの状況説明ではなく、その時間を彼女がどれほど重く受け取っていたのかを物語っていた。
その受け取り方に対して、自分がどう返しているのかを考える。ただ、今のところ僕は何も返していないに等しい。
それでも、何も返していないままでも、この時間は続いている。その続き方が、これまでよりも少しだけ不安定で、どこに落ち着くのか分からないまま進んでいた。
彼女が一度だけ横を見る。視線が合う前に戻る。その動きが、ほんのわずかに早い。
何かを言いかけて、やめたようにも見えた。しかし、それを確かめる勇気はまだ僕にはない。
そのまま歩き続ける。以前と同じ形に戻ったわけではない。ただ、途切れていた時間が、少しだけ違う位置で繋がり直している。
その繋がり方は危うく、どこに向かうのかは分からないまま続いている。それでも、完全に切れているわけではないと感じられた。
言葉は少ないままなのに、その中に含まれている温度だけが、以前よりも確かに増している。
その増え方が、まだ一つの形に定まらないまま、僕の心の中に確かな熱として宿ったようだった。
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