第16話 踏み出さない一歩の理由
外へ出る時間が近づいていることは、わざわざ時計を確認しなくても分かっていた。窓から差し込む光は、ここ数日と同じ角度で床の上に落ち、部屋の奥まで届く手前でゆるやかに薄れている。その光の届き方が昨日とも一昨日ともほとんど変わらないことは、目で見て確かめるまでもなく身体が理解していた。通りを流れてくる喧騒も、昼へ向かう途中の一定の密度を保ったまま、同じように続いている。
それらはすべて、これまでと同じはずだ。それなのに、今日はその同じであるという状態そのものが、妙に鮮明な輪郭を持って意識に居座っている。普段であれば気づいたとしてもそのまま通り過ぎてしまう程度の差が、どこにも強調されていないにもかかわらず、消えきらずに留まり続けていた。
この時間帯になると、外へ出ることは自分の中でほとんど決まっていた。決めていたというよりも、考える前に体が動いていただけだ。
玄関までの距離も、靴を履く動作も、特に意識することなく繰り返されてきた。そのまま通りに出て、人の流れに混ざり、足の向く方向へ進んでいけば、結果として同じ道を通り、同じ場所に辿り着く。その一連の流れの中で『なぜそこへ行くのか』を考えたことはほとんどなかったし、明確な理由を持たないままでも何の不都合もなかった。
むしろ、理由がないからこそ余計な力を使わずに済み、その軽さが心地よく続いていたとも言える。継続しているという感覚すらなく、ただ同じ時間の中に同じように身を置いていただけで、それで十分に成り立っていたのだ。
しかし、今日はその流れが、始まる直前で止まっている。
靴を履けば外へ出られることは分かっているし、外出すること自体に億劫さがあるわけでもない。しかし、外へ出た後の時間が、あらかじめ形を持って僕を待っているように感じられ、その予感が最初の一歩をわずかに遅らせる。
歩き出してしまえば、これまでと同じように迷うことなく進んでいくのだろうという予測があるからこそ、その手前で、すでにある流れに乗ることへの自覚が強く浮かび上がってくる。その乗り方が自然であることは分かっている。しかし、今日はその自然さに対して、わずかな抵抗感があった。行けば、十中八九、彼女に会う。その光景は、特に意識しなくても、ほとんどそのままの形で脳裏に浮かんでくる。
先日、彼女は来られなかったと言っていた。仕事の都合で外に出る時間が取れなかっただけで、それ以上の深い理由があるわけではないと分かっているし、そのこと自体に特別な意味を持たせる必要もない。
しかし、”来られなかった”という事実が一度挟まったことで、それまで続いていた流れの中に、ごく小さな段差のようなものが残っている。その段差は、注意して見なければ気づかないほど小さなものかもしれない。しかし、今日という時間をそのまま繋げようとすると、その段差の存在がわずかに意識に触れる。
行けば、その段差はほとんど見えなくなるだろう。先日の空白も含めて同じ流れの中に自然に収まり、何事もなかったように続いていく。その整い方は無理のないものであり、むしろそうなることのほうが正常だと理解している。
だが、そのまま綺麗に整ってしまうことによって、本来そこにあったはずのズレが消えてしまうことに、ほんのわずかな違和感が残る。ズレが消えること自体が問題なのではなく、消えたことに気づかないまま進んでいくことのほうが、どこかで気にかかった。
彼女に会いたくないわけではない。むしろ、来ているかどうかは気になるし、会えば先日の空白も含めて、そのまま繋がっていくのだろうと思う。しかし、その繋がり方が、特に何も考えないまま流される形になることに対して、少しだけ立ち止まっておきたいという気持ちがあった。
これまでの数日は、同じ場所に行き、同じ時間を共有することが、特に意識することなく続いていた。そのことに意味を与えないままでいられたからこそ、無理なく続いていたのだと思う。
その状態がそのまま繰り返されると、それはやがて『そういうもの』として固まり始める。まだ名前を与えるほどのものではないはずだが、繰り返されることで確かな形を持ち始める。その形の中に入りってしまうと、それ以前の曖昧さには戻りにくくなる。
まだ、そこまで決めてしまうほどの関係ではない。同じ場所に行くことも、同じ時間に会うことも、これまでは偶然に近い重なりとして続いていただけで、それ以上の意味を持っていたわけではないはずだ。
その曖昧さがそのまま保たれていたからこそ続いていたとも言えるし、その曖昧さを失うことで、別のものへと変わってしまう可能性もある。その変化を受け入れるかどうかを決める前に、一度だけ自分を外側へ置いておくほうがいいように思えた。
だから、今日は『行かない』という選択をする。特別な理由があるわけではない。強く拒んでいるわけでもない。
ただ、このまま同じ流れに乗るだけになってしまうのを、一度だけ止めておきたい。その程度の理由でも、動かないという選び方を取るには十分だった。
動かないことで、客観的に自分を眺めることができる。その位置から見えるものが何かは分からない。しかし、少なくとも同じ流れの中に身を任せているだけでは気づかない何かが、そこにあるように思えた。
部屋の中に留まる。椅子に座るでもなく、立ったまま少しだけ時間だけが過ぎていく。外の音は変わらず続いている。通りを行き交う人の足音や、車が通り過ぎる音が、途切れることなく重なりながら流れていく。その中に入れば、いつもと同じように歩くことになるのだと分かっているが、今日はその中に入らないまま、境界線の外側に留まっていた。
その差は微々たるものだが、時間が進むにつれて少しずつ浮き彫りになってくる。動いていないのに、時間だけが進んでいくことで、その差が内側に蓄積されていく。何もしていないはずなのに、何かを選び取っている状態だけが形を持っていく。その感覚はこれまでにはなかったもので、完全に馴染んでいるわけではないが、不自然だとも思わなかった。
今ごろは、境内にいる時間だと分かる。参道を歩き、賽銭箱の前で足を止め、手を合わせる。そのあとすぐには動かず、ほんの少しだけその場に留まる。その一連の流れが、鮮明に頭の中に浮かんでくる。そこに彼女がいるかどうかも、特に考えなくても想像がついた。
時間はそのまま進み、昼を過ぎる。今から外へ出ても、これまでと同じにはならないと悟ったとき、動かなかったことがそのまま一つの結果になった。それは劇的な変化ではない。しかし、これまでの流れの中では確かに違う地点に立っている。
彼女が来ていたかどうかは分からない。確かめる方法はないし、確かめないままにしておくことを選んだのも自分だと分かっている。その選び方に迷いがないわけではないが、迷いを含んだままでも、そのままにしておくことができる。
『行かなかった』という事実が一つできる。それだけで終わるはずだが、その一つが、これまで続いていた時間の中で、わずかに位置をずらす役割を持っているように感じられる。そのズレがどこへ繋がるのかは分からない。しかし、何も変わらないまま流されるよりは、そのほうが自然に思えた。
外の音は変わらず続いている。その中に入らなかった時間が、音もなく積み重なっていく。その積み重なりは目に見えるものではないが、確かにそこにあると自覚できるだけの重みを持っていた。
その重さを、僕は次の一歩を踏み出すための熱に変えて、心の奥底に閉じ込めた。
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