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<全31ep> 神戸、八社のあいだで  作者: 第三ひよこ丸


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15/31

第15話 欠けたピースが埋まるとき

 境内に入った瞬間、昨日と同じ場所を歩いているはずなのに、どこか一箇所だけ順序が抜けたままになっているような感覚が残っていた。

 

 通りから続いてきた喧騒はそのまま持ち込まれている。しかし、音の重なり方だけがわずかに異なり、足を踏み入れた瞬間にその違和感だけが静かに浮かび上がる。特別に何かが変わっているわけではない。それでも、昨日ここにいなかったという事実が空白として居座り、視界には映らないまま、感覚のほうにだけ色濃く留まっていた。

 

 見える景色が何も変わっていないからこそ、その不変さが、逆に空白を際立たせているようにも感じられた。


 参道を進む。どこへ向かうかを明確に決めているわけではないはずが、足は自然と奥へ運ばれていく。来るつもりだったわけでも、来ないと決めていたわけでもない。ただ、結果として昨日はここに来ていない。そのこと自体は特別な意味を持たないはずだ。

 

 しかし、歩いていると、抜け落ちた一日分の時間がきれいに消えているわけではなく、わずかな引っかかりとして残っているのが分かる。その感触は、意識しなければ見過ごせる程度。しかし、完全に無視できるほど軽いわけでもなく、歩幅のどこかに影のように寄り添ってくる。


 順番を意識しているつもりはない。それでも、続いていた流れの中で一度途切れた場所があると、その前後の繋がり方だけが少し曖昧になる。どこからやり直すというほどのことでもないが、どこからでもいいと言い切るには、小さな違和感が残る。その違和感を抱えたまま歩くと、足取り自体は変わらないのに、内側だけが少しだけ遅れる。進んでいるはずなのに、どこかで足踏みをしているような感覚が、ごく弱い形で重なっていた。


 賽銭箱の前で足を止め、小銭を入れて手を合わせる。これまでと同じ動作を繰り返しているだけ。それなのに、手を下ろした後、すぐに動き出さずにいる時間が少しだけ長くなる。

 

 昨日ここにいなかったという一点が、動作の流れの中に微細な空白を作り、それが次の動きをほんのわずかに遅らせる。その遅れは周囲から見れば判別できない程度のものだが、自分の中では確かな差として残っていた。


 そのまま立っていると、視界の端に動きが入った。懸命に探していたわけではない。しかし、結果としてそちらへ目が向く。視線を向けた瞬間に、探していたわけではないという前提が少しだけ崩れる。しかし、それを訂正するほどの理由もないまま、僕はただ見つめていた。


 参道の少し奥、人の流れからわずかに外れた位置に立っている姿がある。周囲と同じように立っているはずなのに、完全には溶け込んでいない。視線の置き方が、どこか一箇所に定まっていないように見える。その立ち方に、見覚えがあった。以前にも同じ光景を見たことがあると気づくまでに、時間はかからなかった。


 数秒遅れて、それが誰なのかを理解する。

 彼女だった。


 昨日はいなかった場所に、今日はいる。その事実が、説明を必要としないまま、その場で自然に繋がる。抜けていたはずの時間が埋められるというより、抜けたままでも続いていたものに、もう一度合流したような感覚だった。空白が消えたわけではないが、そこに新しく何かが加わったことで、空白そのものの輪郭が曖昧になっていく。


 こちらが見ていることに気づいたのか、彼女が顔を上げた。視線が合うまでの時間は短く、そのまま逸らす理由もない。避ける必要がないというより、避けることのほうが不自然に思えた。

 

 彼女の表情が、ほんのわずかに緩む。その変化は小さい。しかし、昨日ここにいなかった分だけ、今日のほうが強く意識に刻まれる。すぐに元の形へ戻ろうとするが、完全には戻りきらず、目元にわずかな柔らかさが残る。その残り方が、意図したものではないことも分かった。


 距離がゆっくりと詰まる。歩幅は変わらないが、近づくまでの時間がわずかに短く感じられた。互いに速度を変えているわけではないのに、その間の距離だけが自然に縮まっていく。


「……昨日、外に出ようとは思っていたんです。しかし、途中で呼び止められて、そのまま戻ることになってしまいました」


 彼女が言う。言い出しは慎重だったが、その後は一息で続く。途中で言葉を区切らないまま、ひとつの流れとしてまとめている。


「来るつもりでいたのに、結局来られないまま一日が終わってしまったのが……なんだか、自分でも驚くほど心残りだったんです」


 言い終えた後、わずかに間が空く。その時間は短いが、言葉にしきれなかった想いが残っていることが伝わってくる。


「そのままにしておいても問題はないと思っていたんです。しかし、どうしても、どこかだけ残る感じがして……」


 少しだけ言い足す。その言葉の増え方が自然で、さっきの台詞の補足として重なる。


「来ているかどうかは分かりませんでした。しかし、それでも、ここには来ようと思いました。いなかったとしても、それはそれでいいと思ったんです。そのままにしておくよりは、来ておいたほうがいい気がしたので」


 言葉が続く。整っているが、わずかに余白が残る。その余白が、言葉にしきれていない感覚をそのまま含んでいた。


「昨日、途中が抜けた形になってしまったので、どこで区切ればいいのか分からないまま残っていました。順番通りに進んでいるときは、あまり迷わなくて済むんです。しかし、こういう形になると、戻り方が定まらなくて」


 前を向いたまま続ける。その声の調子は変わらないが、内容だけが少し近づく。説明というより、自分の状態をありのまま話しているような言い方だった。


「しかし、こうして普通に話せていますし、昨日があっても、そのまま続いている感じがします。だから、そこまできっちり戻さなくてもいいのかもしれないと思いました」


 言い終えた後、ほんのわずかに息が抜ける。その抜け方に、さっきまで残っていた緊張がほどけた形がそのまま残る。


「……会えて、よかったです」


 小さく付け足す。その一言だけが、他の言葉よりも少しだけ直接的で、余分な飾りを捨てて置かれた。


「はい」


 短く返す。それで十分だった。

 

 どちらからともなく歩き出す。並ぶでもなく、離れるでもない距離で進む。その位置関係はこれまでと同じはずだ。しかし、その中に含まれている感覚だけが少し変化している。距離そのものは不変なのに、そこに含まれている密度のようなものだけが、わずかに違っていた。


 最初の数歩だけ、足音の間隔が揃わない。その後、自然に同じリズムになる。合わせようとしているわけではないが、結果として揃う。その揃い方が、今日は少しだけ際立っている。揃った後も、そのリズムが崩れずに続いていく。

 

 無言の時間が続く。その沈黙はこれまでと同じだ。しかし、今日はその中に、言葉にしきれなかった部分がわずかに残っている。それでも、不足している感じはない。むしろ、そのままにしておいたほうがいい部分として収まっていた。


 参道の途中で、自然に足が緩む。どちらが先か分からないまま、同じタイミングで止まった。

 

 その場に立つと、昨日と今日の位置が重なる。間があったはずなのに、その空白が強く残るわけではない。今ここにいるという状態のほうが、そのまま前後を含んでいるように感じられる。欠けているはずの部分も、そのまま含めて成立しているような、曖昧だが崩れない形が残る。


「今日は、あまり長くはいられません。しかし、こうして来て、話せたので、それで十分だと思います」


 整った言い方だが、その中に残る柔らかさが、さっきよりもはっきりしている。形式としては変わらない。含まれているものが少し違うだけだ。


「昨日、そのままにならなくてよかったです」


 続けて言う。その一言は、先ほどよりも迷いが少ない。言い直す必要もなく、そのまま置かれる。


「そうですね」


 短く返す。それ以上は必要ないように思えた。


 境内の外へ向かって歩く。並んだ距離は変わらない。その距離の中にある感覚だけが、わずかに変わっている。歩いている間も、さっきまでの時間が途切れることなく、そのまま続いているように感じられる。

 

 出口が近づくにつれて、外の音が戻ってくる。通りの流れが視界に入り、境内の空気がほどけていく。その変化の中でも、さっきまでの時間が完全に消えるわけではなく、形を変えたまま残っている。境界を越えた後も、完全に切り替わることはなく、わずかな余韻として続いていく。


 境内を出たところで、自然に足が止まった。


「では」


 彼女が言う。


「はい」


 それだけで終わるはずのやり取りの後、ほんのわずかに間が残る。その時間は短いが、消す必要のないものとしてそのまま残った。

 彼女は一度だけ視線を落とし、それから上げる。その動きが、これまでよりも少しだけ丁寧になる。迷っているわけではない。その分だけ、慎重になっているようだった。


「……また、同じ時間に来ると思います」


 控えめだが、意思ははっきりしている。言い切る形ではないが、曖昧にもなっていない。


「分かりました」


 短く返す。


 彼女は小さく頷き、そのまま通りのほうへ進む。

 僕も別の方向へ歩き出す。振り返ることはない。

 

 ただ、来なかった昨日と、こうして来ている今日とが、どちらも消えることなく、そのまま同じ流れの中に置かれているように感じられた。どちらかを補うわけでも、どちらかに戻るわけでもなく、そのまま重なった状態で続いていく。

 

 歪なまま重なり合った昨日と今日。そのあわいに生まれた新しいリズムを、僕は噛み締めるように持ち帰ることにした。

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