第17話 来ないという空白 ~彼女視点~
昼休みが近づくにつれて、手元の作業に向けているはずの意識が、わずかに揺れていることに気づいていた。数字の並びや書類の配置はこれまでと何も変わっていない。それなのに、それを追いかける視線だけが少し遅れ、読み取るまでの間にほんのわずかな隙間が生まれる。
その隙間は仕事の妨げになるほど大きなものではないが、一度意識すると消えきらず、同じような形で繰り返し現れるため、気づかない振りをし続けるのが難しかった。
ここ数日、同じ時間に外へ出て、同じ場所へ向かうことが自然に続いていた。順番をなぞるように動いているだけで、迷うことなく次の行動が決まり、そのまま同じ時間の中に身を置くことができていた。その流れは特別な意味を持たせるものではなく、ただ整っているからこそ無理なく続いていたはずだ。しかし、今はその整い方そのものに、小さな違和感が混ざっている。
最初は一度きりのことだったはずの不在が、二日、三日と続くことで、流れの中に空白として居座るようになる。
来るかどうかを確認し合う関係ではないと理解しているし、来なかったことに理由を求める必要もないと分かっている。しかし、同じ時間に同じ場所へ行けばそこにいるはずだと感じていた存在が、続けて見えないままでいると、その『いない』という状態が、少しずつ確かな輪郭を持ちはじめる。その輪郭は決して強いものではない。しかし、曖昧なままにしておくには鮮明すぎて、意識の中に静かに居座り続けていた。
そして、その残り方が、これまでとは少し違うことにも気づく。ただ事実として『いない』と認識するだけで済んでいたはずなのに、今はその不在の場所に、わずかに引き寄せられるような感覚がある。
理由を考えれば説明できるほどのものではない。それでも、何も感じていないとは言えない程度の重さが、胸の奥にしこりのように留まっていた。
昼休みのチャイムが鳴ると、席を立つという行動自体はこれまでと同じだった。しかし、立ち上がる瞬間だけ、わずかに動きが遅れてしまう。その遅れはほんの一瞬のことであり、周囲から見れば変化と呼べるほどのものではない。しかし、自分の中では決定的な差として感じられた。外へ出ること自体は決めているはずなのに、その先に続く時間がこれまでと同じ形で繋がるのかが分からないため、動きの中に迷いが混ざる。
鞄に手を伸ばしたとき、スマートフォンの存在が意識に浮かぶ。連絡先は分かっているから、確かめようと思えばすぐにでも確認できる。
『今日、来ているのか?』
『ここ数日、どうしていたのか?』
その程度のことを尋ねるのは難しくないはずだ。順番としても、分からないまま動くよりは先に確かめておくほうが自然であることは理解している。しかし、その選択をそのまま選ぶことに対して、どうしても躊躇いが生まれた。
連絡をすれば、答えは返ってくるだろう。来ているかどうかが明確になり、その結果に合わせて自分の行動も決まる。その流れは整っていて、無駄がない。
しかし、その整い方の中に入ることで、これまで曖昧なまま続いていたものが、一気に形を持ってしまうように感じられた。何も決めていない状態のまま重なっていた時間が、確認という行為によって意味を帯び、その意味に沿って動くことになる。その変化を、今の段階で受け入れてしまってよいのか、自分の中で答えは見つからなかった。
スマートフォンを取り出し、画面を点けるところまでは自然に進む。しかし、彼の名前を見つけたところで指が止まった。どのような言葉を選べばよいのかが決まらず、簡単に聞けば済むはずの内容なのに、その”簡単さ”がそのままでは使えないように感じられた。
軽く確かめるという形で終わらせることもできるはずだ。それなのに、そのやり取りが想像しているよりも重大な意味を持ってしまうのではないかという予感が、指先を止めたままにする。
そのまま画面を見つめている間に時間は進み、このままでは外へ出るタイミングそのものを逃してしまうと気づいたとき、どちらを選ぶのかを決める必要があることも同時に理解した。
連絡をして状況を確かめるのか?
それとも、何も確かめないまま外へ出るのか?
その二つの選択の間で揺れながら、最終的に私は、画面を閉じるという動きを選んだ。
スマートフォンを鞄に戻すことで、確認しないままにしておくという選択になる。その選び方はこれまでの自分の考え方からすれば曖昧なものだが、分からないままでも進んでよいのだという感覚が、完全ではないにせよ、どこかに残っていた。
ただ、その分からないままを選んだ後に残るものが、以前よりも鮮烈であることにも気づく。
確かめなかったことで状況は何も変わらないはずだ。それなのに、胸の奥にわずかに残るしこりが消えず、それが静かに広がっていく。その感覚は強いものではないが、無視してしまえるほど軽くもなかった。
そのまま外へ出ると、通りにはこれまでと変わらない人の流れがあり、その中に入ることで歩幅が自然に整う。進む方向も特に考えることなく決まり、足は同じ道を選び続ける。神社の方へ向かう流れの中で、来ているかどうかが分からないままでも、その場所へ行くこと自体に迷いはなかった。
境内に入ると、歩く速度も自然に落ちる。しかし、ひとつだけ欠けている可能性があるという事実が意識から離れない。
参道を進む間、視線は前に向けているものの、周囲を拾う動きが止まらない。探しているわけではないと自分に何度も言い聞かせても、その言葉が完全には成立しなかった。
お賽銭箱の前で足を止め、小銭を入れて手を合わせる。その一連の動作はこれまでと同じだ。それにもかかわらず、手を下ろした後にすぐ動き出すことができず、わずかにその場に留まる時間が生まれる。その遅れは、動き出すためのきっかけがひとつ足りないことによって生じていると気づき、理由を考える前に顔を上げた。
視界の中に、いるはずの姿が見当たらないという事実が、ありのまま伝わってくる。見落としている可能性を否定するために視線を動かすが、結果は変わらず、『いない』ということを理解してしまう。その瞬間、想像していたよりもわずかに重い感覚が胸の奥に落ちた。それは驚きではなく、確かにそこにあったはずのものが欠けていることを認識したときの、静かな実感に近かった。
その実感の中に、わずかに空いた部分がある。ほんの小さなものなのに、意識するとそこだけが少し冷えたように感じられる。これまでにも来ていない日はあったはずだ。しかし、今日はその不在が、単なる出来事としてではなく、自分の内側に深く触れてくる形で伝わってくる。
『寂しい』、と言い切れるほど明快な感情ではない。だが、何も感じていないとも言えない。
その間にある、言葉にしきれない程度の空白が、胸の奥に静かに留まり、その存在だけが消えずに残る。
もう一度だけスマートフォンのことが頭に浮かぶ。しかし、この場所で確認することが適切なのかは分からず、順番として先に確かめるべきだったのか、それともこのままにしておくべきなのかという判断がつかないまま、取り出すことはしなかった。その結果として、分からないままの状態がそのまま残る。それでも、ここに来たという事実と、いなかったという結果だけは、消えずに残っていた。
境内を出て通りに戻ると、外の音が元の密度で重なり始める。その中を歩きながら、同じ道を進んでいるはずなのに、その時間に含まれているものがこれまでとはわずかに異なっていることに気づく。「来ない」という事実がひとつ積み重なることで、これまで連続していた流れの中に小さな断層が生まれ、その断層が意識の中で静かに広がっていく。
その欠けを、無理に埋めようとは思わないまま、ただありのまま受け入れている自分がいた。その一方で、そのままにしておくことで残るこの感覚が、これまでよりも少しだけ重く、そして長く続いていることも分かる。
何が足りないのかを言葉にすることはできない。しかし、その足りなさが確かにそこにあるということだけは、もう曖昧にはできなかった。
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