第12話 同じ場所に来る理由 ~彼女視点~
昼休みに入る少し前から、手元の作業に向けているはずの意識が、うまく留まっていないことに気づいていた。数字や書類の並びはいつもと同じ。それなのに、読み取るまでにほんのわずかな遅れが生まれる。その遅れは些細なもので、仕事に支障が出るほどではない。けれど、確かにいつもとは違う。
無意識のうちに、時計を見る回数が増えている。
理由は分かっているつもりでいて、明確な言葉にするにはまだ躊躇いがあった。考えなくてもいいはずのことが、ふとした瞬間に浮かび上がり、そのまま消えずに残る。
『来ます』と言っていた。
たったそれだけの言葉。けれど頭の中で繰り返されるたびに、少しずつ違う重みを帯びていく。約束ではないし、彼が来なかったとしても不思議ではない。それなのに、なぜか「来ないかもしれない」という可能性を、どうしても現実味を持って想像できなかった。その事実に、自分一人で気づいてしまう。
そのとき、社内に昼休みのチャイムが鳴り響いた。聞き慣れた音のはずが、今日は少しだけ鋭く耳に届く。その音に背中を押されるように、体が先に動いた。
席を立つ。普段通りの動きを心がけているつもりでも、立ち上がる瞬間だけ、ほんのわずかに速くなる。その変化を自覚して、すぐに取り繕うように意識を戻すが、完全に元通りとはいかなかった。
鞄からお弁当を取り出し、いつもの場所で蓋を開ける。中身もいつも通りの昨夜のおかず。味も、温度も、普段と同じはず。それなのに、箸を進める速度が少しだけ速くなっていることに気づく。一口ごとに味わっていないわけではないけれど、時間を使いすぎないようにと願う意識が、どこかに残っている。
急いでいるつもりはない。自分にそう言い聞かせながらも、気づけば完食するまでの時間は普段より短くなっていた。最後の一口を飲み込んだ後、ほんの少しだけ間を置くが、それも長くは続かない。
蓋を閉じ、片付ける。その一連の動作までもが、わずかだが速かった。
外に出る理由はいつもと同じはずだ。けれど、その中に含まれている意味だけが、少しだけ変容しているように感じられる。
建物の外に出ると、空気が少しだけ軽く感じられた。いつもと同じ景色。それなのに、どこか輪郭だけが鮮明に映る。歩き出す方向は決まっている。迷う理由がないからではなく、迷う余地など最初から用意されていないような感覚があった。
視界の先に、あの鳥居が見える。そこへ向かっていることを改めて認識するが、それは引き返す理由にはならなかった。そのまま境内へ入る。生田神社の空気は、表通りと同じ音を含んでいても、どこか密度が違う。その変化には慣れているはずなのに、今日はその違いが強く意識に残る。
参道を進む。視線は真っ直ぐ前に向けているけれど、完全に固定されていないことに気づく。『探しているわけではない』と一度だけ自分に言い聞かせるが、その言葉は少しだけ空回りした。探していないのなら、どうして視線が落ち着かないのか。その疑問がすぐに浮かび、消えきらない。
お賽銭箱の前で足を止める。小銭を入れて手を合わせる。これまでと同じ動作。それなのに、手を下ろした後、そのまま動き出さずにいる時間が少しだけ長くなる。
待っているわけではない。そう思おうとして、すぐにその言い方が少し違うと気づいた。待っていないと断言できるほど、自分の中は整理されていない。ただ、動き出すきっかけが一つだけ遅れている。その理由を言葉にする前に、視界の端に入った影に意識が向いた。
顔を上げる。
距離は、まだある。
それでも、誰であるかを判断するのに時間はかからなかった。見間違いかもしれないと疑うより先に、彼だと確信してしまう。その感覚に、ほんのわずかに戸惑う。
どうして分かるのか、と考えるより先に、分かってしまったという事実のほうが強かった。
視線が合う。その瞬間、思っていたよりもずっと強く、胸の奥が揺れた。来るかもしれないとは思っていた。けれど、実際に目の前に彼がいることで、想像よりも少しだけ近い場所に引き寄せられる。
ほんの一瞬だけ、口元がやわらぐ。それを自分で自覚して、すぐに元に戻すが、完全には戻りきらなかった。
距離が少しずつ詰まる。その間、何を言うかを考えているわけではないけれど、何も言わないまま通り過ぎる結果にはならないと分かっている。
「……来てたんですね。来るって言ってましたよね。だから、少しだけ、会えるかもしれないと思ってました」
言葉が出る。思っていたよりも素直な形で漏れたことに、自分でもほんのわずかに驚く。
自分で抑えたつもりの熱量が、そのまま残ってしまっている気がして、少しだけ視線を外した。
「来ました」
返ってくる言葉は短い。それだけで、余計な説明が不要なことが分かる。
そのまま歩き出す。並ぶでもなく、離れるでもない距離。その位置関係はこれまでと変わらないはず。それなのに、さっきよりもわずかに近く感じられた。
足音が揃う。合わせようとしているわけではないのに、自然に同じリズムになる。そのことに気づいた瞬間、ほんの少しだけ意識してしまうが、崩そうとは思わない。そのまま続いていくことのほうが、今は自然に感じられた。
無言の時間が続く。これまでも何度かあった沈黙のはず。けれど、今日はその中に含まれているものが違っていた。何も話していないのに、完全に空虚なわけではない。さっきのやり取りが、余韻としてそのまま残っている。
その残り方が、少しだけ心地いいと感じている自分に気づく。理由を考えようとして、やめた。まだ言葉にしてしまうには、早い気がしたから。
「この前、七宮神社のあとで、そのまま一緒に歩きましたよね。順番とは関係ない場所にも行きましたし。特別に決めていたわけではないのに、そのまま同じ時間を過ごしている感じがありました」
前を見たまま言葉を続ける。さっきよりも少しだけ、声が柔らかくなっているのが自分でも分かる。
「全部を一緒にするわけではなくても、途中で同じ方向に進むだけで、十分に一緒にいたことになるんだと思います。時間が短くても、その中でどう繋がっていたかのほうが、あとに残る気がしました」
言い終えた後、ほんのわずかに緊張が残る。
「そうですね」
短い返事が返ってくる。その言い方が変わらないことに、逆に安心した。
参道から少し外れた場所へ足が向く。人の流れが薄くなり、足音だけがはっきりと残る。その静けさの中で、隣に彼がいることがさっきよりも意識に刻まれる。
時間のことを思い出す。戻らなければいけない。それは分かっている。それでも、このまま終わってしまうには、少しだけ足りないと感じている自分がいる。
その感覚に気づいた瞬間、ほんのわずかに胸の奥がざわついた。
「そろそろ、戻らなければいけない時間です」
言葉にすることで、意識を切り替える。
「今日は少し余裕がありますけど、それでも長くはいられませんし、このまま戻ります。ただ……こうして少しだけでも同じ場所にいると、それだけで、この前の続きになっている気がするんです」
言い終えた後、ほんの少しだけ息が抜ける。
そのまま歩き出し、出口へ向かう。並んだ距離は変わらない。けれど、その距離の中に含まれている意味が、さっきよりも鮮明になっている。
境内を出る直前、ほんの一瞬だけ横を見た。言わなくてもいいかもしれない、という感覚と、このままにしておくと少しだけ足りない、という感覚が重なる。
数歩分の間のあと、慎重に言葉を選んだ。
「また、来ると思います。同じ時間に外へ出ることは変わりませんし、その流れの中でここに寄ることも、これまでと同じように続いていくと思います」
一度言ってから、ほんのわずかに間を置く。
「……明日も、来られますか?」
声が少しだけ小さくなる。返事を待つ間、わずかに視線を外した。その数秒が、思っていたよりも長く感じられる。
「来ると思います」
返ってくる言葉は短いが、その中に迷いはない。その瞬間、胸の奥にあった小さな緊張が、ゆっくりとほどけていった。
境内を出て通りに戻ると、外の音が元の密度で重なり始める。それでも、さっきまでの時間が完全に切り離されるわけではなく、どこかに残ったまま歩き出すことになる。
少し進んだところで、自然に足が緩んだ。同じ位置で立ち止まる形になるが、それは合図があったわけではなく、流れとしてそうなっただけだと分かる。
「では」
「はい」
短いやり取りで十分だと分かっている。
「明日も、このくらいの時間に来ています」
付け足すように言う。その一言は、さっきよりも少しだけ確かになっていた。
「分かりました」
短く返ってくる。
そのまま、それぞれの方向へ歩き出す。振り返ることはない。けれど、さっきまで揃っていた歩幅の感覚だけが、しばらく残り続ける。
同じ場所に来る、という行動自体は変わらない。けれど、その理由は少しだけ変化している。習慣だから足を運ぶのではない。ただ、ここに来たいと思っているから、私は来るのだ。
その違いに気づいたとき、ほんのわずかに足取りが軽くなった。
それが誰に向いている感情なのかを、まだ言葉にすることはできない。それでも、その中心にあの人がいることだけは、もう否定できないところまで来ていた。
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