第11話 続いてしまう時間の中で
朝の光は、昨日と同じ向きから差し込んでいる。それなのに、どこか光の輪郭だけがわずかに強くなっているように見えた。変化として取り出せるほどの違いではない。けれど、ここ数日の流れが途切れず続いているという感覚だけが、目を覚ました瞬間から意識の底に残っている。
起き上がるまでの間、天井を仰いだまましばしその余韻に浸る。その間に、どこへ行くかを決める必要があるとは思わない。ただ外へ出ることだけが、いつの間にか確定事項として自分の中に居座っている。
支度を整えて部屋を出ると、空気はすでに昼へ向かう途中の熱を帯びていた。
通りに出た瞬間、人々の奔流が視界に飛び込んでくる。それぞれの歩幅や速度は揃っていないけれど、全体としては一方向へ流れている。その中に入れば、自分の歩き方も自然に決まる。どこへ向かうかを考えるより先に、歩くという行為そのものが始まっていた。
足は三宮の方向へ向いている。意識して選んだわけではない。ここ数日の習慣が、そのまま体に焼き付いているのかもしれない。一度通ったことのある道は、思考を介さずとも繋がる。交差点の位置や、曲がる角の感覚が、記憶を呼び起こすよりも早く、身体的な反応として処理されていく。
視界の先に、見慣れた鳥居が入る。そこでようやく、ここへ来る流れだったのだと自覚した。立ち止まる理由は見当たらず、足はそのまま境内へと向く。
生田神社の中に入ると、通りの喧騒とは一線を画した空気に切り替わる。音が完全に消えるわけではないが、その重なり方が変容し、歩く速度が自然に落ちる。参道を進みながら、特に誰かを探しているわけではないと自分に言い聞かせる。それでも、視線がわずかに周囲の景色を拾ってしまうのは、自分でも止められなかった。
賽銭箱の前で足を止め、硬貨を入れて手を合わせる。これまでと同じ動作。特別な思索を巡らせることもない。手を下ろした後、そのまま動かずにいると、時間だけが静かに降り積もっていく。
そのとき、視界の端で何かが動いた。懸命に探していたわけではないけれど、自然とそちらへ意識が向く。
彼女が、いた。
境内の中で、少し離れた位置に立っている。昨日とは場所も状況も違う。しかし、同じように視界に入る距離にその姿はあった。この配置に、わずかな既視感を覚える。
こちらが気づくのとほぼ同時に、向こうも顔を上げた。視線が合うまでの時間は極めて短く、避ける理由もなかった。
彼女は一瞬だけこちらを見つめ、その後、ほんのわずかに口元を綻ばせる。すぐに元に戻るほどの小さな変化だ。しかし、確かに昨日よりも鮮明に記憶へと刻まれる。
「……また、来ていたんですね。昼休みに来ることが多いとは言いましたけど、今日は少し時間がずれていて。別の用事を先に済ませてから来ました。それでも、この時間ならまだ間に合うと思って寄ってみたんです」
「はい。自分も特に決めていたわけではなくて、歩いていたらここに来ていました」
短く返す。それで十分だった。どちらからともなく歩き出す。並ぶでもなく、離れるでもない距離で進む。その位置関係は昨日よりもわずかに近い気がするけれど、意識して調整する必要はない。そのままの距離感で続いていくことに、不思議と違和感はなかった。
境内をゆっくりと進む。人の流れはあるが密度は高くないため、無理に歩調を合わせようとしなくても自然に揃う。足音の間隔がほとんど同じリズムで刻まれていることに気づくが、それを敢えて崩そうとは思わない。
しばらく無言の時間が続く。その沈黙は重苦しくならず、むしろ心地よく感じる。言葉を交わさずとも成立しているこの状態が、昨日よりも明白になっていた。
やがて、彼女が静かに口を開く。
「昨日、七宮神社のあとで、そのまま一緒に歩いて、順番とは関係のない場所にも行きましたよね。ああいう流れだと、特別に何かを決めたわけでもないのに、同じ時間を共有している感じが自然に続いていくんだと思いました。最初から最後まで全部を合わせなくても、途中から同じ方向に進んで、そのまま同じ場所に行くというだけで、十分に一緒にいたことになるんですね。時間の長さよりも、どう繋がっていたかの方が記憶に残るというか……。昨日はそれが分かりやすかった気がしました」
前を向いたまま、彼女は言葉を途切れさせずに続ける。
「そうですね」
短く返す。それ以上の説明は不要だった。
「順番があるときは、ただそれをなぞるだけでよかったですけど。終わったあとでもこうして続いていくと、どこまでを一緒と考えるのかが少し変わりますね。区切りが曖昧になる分、流れの中で繋がっている時間のほうが、強く残る感じがします」
彼女はそう言ってから、少しだけ間を置いた。
参道からわずかに外れた位置へ、自然と足が向く。人の気配がさらに薄くなり、自分たちの足音だけがはっきりと残る。その静けさの中でも、歩幅は決して崩れない。
やがて、彼女が足を止めた。時計を確認する仕草はない。しかし、長くは留まれないことは察しがついた。彼女はそのまま動かず、わずかに視線を落とした。
「そろそろ、戻らなければならない時間です。今日は少し余裕がありますけど、それでも長くはいられません。ただ、こうして少しだけ一緒にいる時間があると、それだけで昨日の続きになっている気がしますし、それで十分な気がします」
そこまで言ってから、言葉が一度途切れる。すぐに歩き出す気配はない。
ほんのわずかな間が空く。その静寂は、これまでよりも少しだけ長く感じられた。
「……あの、明日は……、ここに来られますか? いつも通りの昼休みの時間になりますけど、その時間なら少しだけ寄ることができると思います。もし来られるなら、今日みたいに短い時間でも、同じ場所にいるだけで十分だと思いますので……」
ためらいを滲ませながらも、途中で言葉を投げ出さずに続ける。その言い方は曖昧さを残しているけれど、彼女の真意は理解できた。
すぐに答えようとして、言葉が喉の奥で一度止まる。来るかどうかだけなら短く返せる。しかし、その問いかけはそれだけでは収まらない性質のものに思えた。昨日から絶え間なく続いている流れの中で、この質問が置かれている位置を、そのまま軽く扱ってしまうのは違う気がしたのだ。
「……来ます」
短く言いかけてから、わずかに言葉を修正する。
「来られると思います。今日みたいに、少しの時間になるかもしれません。それでも、来る理由としては十分だと思うので」
言葉にしながら、自分でも少しだけ相手に歩み寄った言い方になる。ただ、無理に合わせたわけではない。
「昨日のあと、そのまま続いている感覚があって。今日ここに来たのも、たぶんその延長だと思います。だから明日も同じように来ることになると思います。時間を合わせるというよりは、同じ場所に来ているというだけでも、十分に繋がると思うので」
そこまで言ってから、言葉を止める。言い過ぎているわけではないけれど、これ以上重ねる必要もない。
彼女はすぐには答えなかった。少しだけ間を置いてから、小さく頷く。
「……そうですか」
その一言は短いが、さっきまでの躊躇とは少し違う色が混じっていた。
そのまま、足が動く。出口へ向かって進む。さっきまでと同じ距離が保たれるが、その距離に対する意識が少しだけ変化している。近づいたわけではないのに、離れている感じがしない。
出口が近づくにつれて、外の音が戻ってくる。大通りの流れが視界に入り、境内の静謐な空気が少しずつほどけていく。
境内を出たところで、自然に足が止まった。これまでと同じようでいて、わずかに違う位置関係で立ち止まる。
「では」
彼女が言う。
「はい」
それだけで終わるはずのやり取りが、消えずに少しだけ残る。
「明日」
彼女が続ける。
「はい」
「同じ時間くらいに、来ています」
それは約束ではない。しかし、ただの確認でもない、確かな意志が宿った言い方だった。
「分かりました」
短く返す。その一言に、先ほどのやり取りの続きがそのまま含まれている。
彼女は小さく頷き、そのまま雑踏の中へ進んでいく。自分も別の方向へ歩き出す。振り返ることはなかった。
短い時間だった。けれど、ただ通り過ぎたわけではない。昨日から続いている流れの中に、今日の時間が重なり、その上に明日という具体的な道標がひとつ置かれた。
これが終わりなのかどうかは分からない。それでも、続いていく形だけは、これまでよりも鮮明に見えていた。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




