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8-6 だ、駄目よ! そんなこと!







人外じんがいというジャンルは、愛に関する学術書のようなものなの」


 絶体絶命の空気の中、アリチェが静かに、しかし断固とした足取りでノンメの前に進み出た。


 ノンメは手元で読みかけていた同人誌をパタリと閉じると、感情の読み取れない瞳でアリチェを見据えた。


「ジンガイ……?

 聞いたことがない言葉ですね」


「愛について分析した論文や学術書はいくらでもあるし、それはグレーネでも同じでしょう。

 でも、純粋な愛と、『繁殖』という生物学的本能とを、どうやって区別するのか。

 それとも区別することは不可能なのかについては、常に議論が分かれるところよね。

 永遠のテーマだとも言えるわ」


「確かに、それはポータリアンの学会でも同じ状況だと言えますね。

 本能を排除した純粋な情動の定義は、極めて困難です」


 アリチェの言葉に、ノンメがわずかに身を乗り出した。

 ポータリアン、特に論理を重んじるグレーネ人にとって、この手の形而上学的な問いは知的好奇心を刺激するらしい。


「人外というジャンルは、人という枠組みを脱ぎ捨てたとき、存在と存在の間にはどのような関係性が残るのか?

 それは本質的なものなのか?

 あるいは肉体という器に応じて変容するものなのかについて、具体的なイメージを用いて表現している分野なの。

 例えば、その本……」


 アリチェは、ノンメが手に持っている『粘液プルプル調教』の表紙を指差した。


「強気な女戦士と意思を持つスライムの関係を描いた作品だけど、出会った当初は言葉が通じないからコミュニケーションできず、女戦士はスライムを下等な怪物としてしか見ていない。

 ところがスライムの粘液が彼女の体に触れたとき、彼女は感じるの。

 スライムの中に、わずかな慈愛の心が宿っていることに」


「……慈愛、ですか。

 粘液の中に?」


「そう。

 そして交流を続けるうち、彼女は真の愛とは何なのかについて悟っていくんだけど……これ以上はネタバレになるから言わないでおくわ」


 アリチェの説明でノンメは少し興味をひかれたのか、再び『粘液プルプル調教』を手に取り、最初のページに戻ってじっくりと読み始めた。


 俺はアリチェの意外な行動に、ただただ唖然としていた。

 彼女は俺の前ではいつも、退屈そうにゴーグルでネットニュースばかり見ている。

 漫画に興味があるなんてそぶりは、これっぽっちも見せていなかったのだ。


 だが、今の彼女はどうだ。

 分野こそ極端に狭そうだが、その知識と熱量は間違いなく本物、ガチのオタクじゃないか。


 (……待てよ。アリチェがゴーグルで見ていたのって、本当にニュースだったのか?)


 俺の心に、そんな疑惑さえ湧き上がっていた。



   ***



 ノンメが食い入るように『粘液プルプル調教』を読みふけっている間も、アリチェの独演は止まらなかった。


「でもね。

 その漫画は初心者にはいいと思うけど、人の姿をしているようでは純粋な人外系とは言えないわ」


「えっ!?」


 ノンメが驚いたように声を荒らげた。


「例えばそっちの本は、警備ボットとドローンの恋愛を描いた作品よ。

 お互い金属製の固いボディだから、アナログ的な接触はできない。

 その代わり、相手のシステムにかけられたプロテクトをハッキングすることで、気持ちを伝えようとするの……」


 アリチェはふっと目を伏せ、声のトーンを落とした。


「それが相手のオペレーティングシステムに、深刻な障害を引き起こすことになるとも知らずにね」


 しばらく沈黙が続いたが、思考を巡らせていたノンメ検閲官が口を開いた。


「な、なるほど……。

 ジンガイというカテゴリーはある種の思考実験というわけですね。

 様々なシチュエーションを適用していくことで、何が本質なのかを見極めようとするナラティブなシミュレーション……」


 目頭を押さえるアリチェに対し、ノンメの理解は加速していた。


「そうとも言えるわね。

 だけど、こんなのはまだ序の口よ。

 真の人外は、触れることさえできないプラトニックな愛の形を描いているわ。

 例えば幽霊と人魂とか、赤血球と腸内細菌とか」


「赤血球と……細菌……」


「ちなみに私が最近気に入っているのは、『原子の中心で、愛を叫ぶ』。

 重水素原子核における中性子と陽子のロマンスよ」


「ちゅ、中性子と、陽子!?」


 ノンメの驚愕し上ずった声が、狭い倉庫に響き渡った。

 多くのアニメを見て多様性には寛容なつもりだった俺にとっても、そのカップリングは衝撃で、微塵も絵面がイメージできなかった。


「陽子と中性子は、本来であれば相性が良いわけではないわ。

 けれど、パイ中間子をやりとりすることで、強い相互作用で結びついていたの。

 けれどそこに……ウィークボゾンが介入する……」


「な、なんですって!?」


 もはや俺には何を言っているのかさっぱりわからなかったが、ノンメにとってはド真ん中のツボだったらしい。

 彼女はガッツリと食いつき、アリチェの言葉を一言も聞き漏らすまいとしている。


「ウィークボゾンがクォークのフレーバーを書き換えてしまうことで、陽子は電子を飲み込んでしまう……」


「だ、駄目よ!

 そんなことをしたら……!」


「そう。

 陽子は中性子へと変わってしまうの。

 当然、2人は離れ離れになってしまうわ。

 ……強い相互作用という絆さえ、失って」


「そ、そんな……。

 それで、どうなるんです!?

 2人の核子はどうなってしまうんですか!」


「これ以上は……言えないわ。

 ネタバレになってしまうから」


「ええぇっ、そこまで話しておいて、それはないでしょう!」


 ノンメはアリチェの両肩を掴むと、前後に激しく揺さぶった。

 さっきまでの冷静で理知的な検閲官の威厳は、完全に消し飛んでいた。

 グレーネ人は表情を変えることはないが、彼女の灰色の皮膚には、びっしりと汗が染み出している。


 これほどまでに激情に駆られたグレーネ人を、俺は見たことがなかった。


「ドリーン?」


 アリチェがひょいと首を傾げて店主を呼んだ。


「な、なにかしらぁ?」


 ミニスカ看護婦姿のドリーンも、あまりの展開に呆然としている。


「『原子の中心で、愛を叫ぶ』の全巻セットは、いくらになる?」


「全10巻だから、250セルね」


「……だそうよ、ノンメさん。

 どうするの?」


 アリチェの問いかけに、ノンメはがっくりと肩を落とすと、絞り出すような声で言った。


「……買います。

 購入させていただきます」


 それは彼女が、完全に『沼』に落ちた瞬間だった。




---   エピソード8   完   ---



=== 科学的補足 ===


【重水素】

・通常の水素の原子核は陽子1つで構成されているが、核力によって引き寄せられた陽子と中性子を原子核にもつ元素を重水素と呼ぶ。



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