17-1 地球ってどんなとこなん?
「いよいよ、だな……」
俺は乗務員室のシートに体を沈め、ハーネスのバックルをかちりと留めた。
隣では、キャビンアテンダントのケーミンが、同じように細い腰のあたりでベルトを締めている。
白いボディスーツに包まれたスタイルは相変わらず抜群で、頭の触角がぴょこぴょこと機嫌よさげに揺れていた。
地球遊覧船。
ポータリアン製の、直径18メートルもある円盤型の宇宙船だ。
客室の外周はぐるりと全方向がディスプレイになっていて、床もシートのある場所以外は全面がディスプレイ。
地球のあらゆる風景を満喫できるらしい。
今からこいつに乗って、俺は月を離れ、数か月ぶりに生まれ故郷へと向かう。
誘拐されて月くんだりまで連れてこられて、清掃員なんてやらされて、ひどい目にも遭ってきた。
けど、まあ、これはきっと運命の神がバランスをとるために俺に与えてくれた幸運なんだと思うことにした。
しかも狭い乗務員室で、絶世の美女とふたりきりだ。
上空からグランドキャニオンを眺めて、サウジアラビアの「The Line」を見下ろして、夜になればパリの夜景――。
海外旅行なんて一度も行ったことがない俺は、想像するだけで胸が高鳴った。
絶対、楽しい旅になる。
そう信じて疑わなかった。
このときまでは。
「ピッ。
ご搭乗のみなさま。
当船はまもなく宇宙港ドックを離床いたします」
人工人格機長の落ち着いたアナウンスが流れ、船がふわりと持ち上がる。
スラスターでゆっくりと上昇していくのが、尻の下から伝わってきた。
月面から十分に距離をとると、今度は光子エンジンへの切り替えだ。
ぐっ、と。
全身が、シートに押しつけられる。
「うぐっ……」
1Gの加速。
ポータリアンの宇宙船ってのは、この1Gをずっと維持したまま、何時間でも加速し続けられるらしい。
おかげで月から地球まで、たったの3時間。
東京から新幹線で神戸あたりまで旅行に行くようなもんだ。
ただ、問題があった。
俺の体は、もうすっかり月の6分の1Gに慣れきっていたのだ。
久しぶりにのしかかってきた本物の重力に、腕も、頭も、まぶたまでもが、ずっしりと重い。
シートから腕を持ち上げるだけで、ひと仕事だ。
ついこの間まで、自分がこんな重力の下で平気で暮らしていたなんて、とても信じられなかった。
「……俺、本当に地球に帰りたいのか?」
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
地球に戻れば、ベーシックインカムでのんびり暮らせる。
働かなくても食っていける。
でも、この1Gだ。
常に重たい荷物を背負わされて、足かせをつけられているようなもんだ。
いっぽう月では働かなきゃいけない。
けど、身軽に動ける。
どっちもどっちだよな――そう考えて、俺はあることに気づいて驚いた。
いつのまにか、地球に帰りたいという気持ちが、ずいぶん弱まっているのだ。
月に連れてこられたばかりのころは、あんなに必死で帰りたがっていたのに。
今はなんだか、躊躇している自分がいる。
いわゆる……ヘドニックトレッドミルってやつか。
人間はどんな悪い環境に置かれても、いずれ慣れてしまうものなのだ。
「……なあレンマ。
地球ってどんなとこなん?」
ケーミンが、こてんと首をかしげて聞いてきた。
「どんなって……。
お前は仕事でしょっちゅう地球に行ってるんだろ?
俺より詳しいんじゃないのか?」
「うちが見てるんは外側だけや。
地球との条約で、地上に降りることは禁止されとるしな。
お客さんに説明できるよう、いろいろと知識だけは学んどるけど、実際のところ地球での暮らしがどんなもんなのかは、全然わからんのや」
「暮らしねぇ……。
俺の場合、暮らしっていっても、ネットカフェとゲーセンとコンビニを往復してただけだからなぁ……」
俺は苦笑いした。
「コンビニは、コンビニエンスストアのことやな。
何を売ってる店なのか、いまひとつわからんのやけど……」
少し意外に感じたが、ケーミンはコンビニをよく知らないようだ。
思い起こせば、毎晩コンビニに夕飯を買いに行くのは楽しかった。
商品はやたら種類が多くて、入れ替わりも激しくて、棚を眺めているだけで飽きなかった。
じゃがりこと午後の紅茶だけは、定番として毎回かごに放り込んでいたっけ。
「いろいろ売ってるよ。
食品、漫画、文房具、酒……。
あと、クジ引きもやってる」
「クジ……?」
「ああ。
ほとんど毎週のように商品が入れ替わるんだ。
だいたい景品はアニメのグッズだな。
もちろんイセハナのクジも何回もやってるぞ」
「な、なんやて!
ハルト様のグッズも手に入るんか!?」
「運がよければな。
そしてクジの景品は店で買うことができないし、再生産もされない限定品なんだ」
「げ、限定……」
俺を見つめるケーミンの目はマジだった。
もし彼女が日本に住んでいたら、きっとコンビニのクジにドはまりして、財産をすり減らすに違いない。
そんな姿を想像すると、ちょっと微笑ましくなる。
そういえば――。
俺は、自分が毎日コンビニに通っていたもうひとつの理由を思い出した。
――桜井さん。
胸のネームプレートにはそう書いてあった。
おそらくバイトの高校生で、いつも夜のシフトに入っていた。
緑と白のストライプ柄の制服。
黒いショートボブ、飾り気のまるでないすっぴんで、くったくのない笑顔が印象的だった。
「レジ袋はおつけしますか?」とか「温めますか?」とか、事務的な会話しか交わしたことはなかったが、それでもあの子の存在は、俺がいつも同じコンビニに通っていた理由のひとつになっていたのだ。
「コンビニかぁ。
うちも行ってみたいなぁ」
ケーミンは叶わぬ夢を願うように天井を見上げた。
そのとき、機内にチャイムの音が響き渡った。
「ピッ。
ご搭乗のみなさま。
当船はこれより、地球へ向けた巡航航路に進路を固定いたします」
人工人格機長のアナウンス。
その瞬間、ケーミンの表情が、すっと暗くなった。
「……?」
おかしい。
普通なら、無事に出発できて「やれやれ」と安心するところだろう。
なのに、彼女の反応はまるで逆だ。
安堵どころか、これから処刑台にでも上がるみたいな顔をしている。
そして、ピンポーン、とCAコールボタンの音が鳴り響いた。
「……始まったわ」
ケーミンは青ざめた顔でそうつぶやくと、力なく立ち上がり、ふらふらと乗務員室を出ていった。
なにが始まったというのか?
状況がよくわからないまま、俺も彼女を追って客室へと向かう。
そこに広がっていた光景は、ポータリアン観光客たちの、見るも無残な、《《だらしない》》姿だった。
=== 用語解説 ===
【ケーミン】
17歳。女性。アンテラ人。地球遊覧船のキャビンアテンダント。ロニャの悪友でよくいっしょに遊んでいるらしい。推しは異世界花嫁無双の主人公ハルト。
【The Line】
サウジアラビアが計画している高さ500m・幅200mで全長が数km~170kmにも及ぶ鏡張りの直線都市。
【ベーシックインカム】
政府が全国民へ無条件・定期的に最低限の生活費を給付する制度。最大の課題は財源だが、AIの進歩と普及で実現性が高まっている。
【ヘドニックトレッドミル】
病気や事故、離別など悪い出来事で幸福度が一時的に下がっても、人はやがてその状況に適応し、もとの幸福水準に戻っていくという心理的傾向。




